tag:blogger.com,1999:blog-81758176559638607532024-02-22T23:19:13.639+09:00文字τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.comBlogger65125tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-47475831426707428112019-11-23T12:07:00.003+09:002019-11-23T12:07:42.907+09:00【移転します】ブログの移転について<div>
工藤順のウェブサイトを以下に開設しました。今後はこちらをメインに使っていきますので、フォローをお願いします。</div>
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<a href="https://junkdough.wordpress.com/" target="_blank">https://junkdough.wordpress.com</a></div>
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このbloggerも、大学時代に考えていたことの記録として、当分のあいだ残しておく予定ですが、更新はしません。</div>
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2011年から使っていたツイッターをやめることに決めたことがきっかけとなり、いいタイミングかなと思い、ブログも一区切りしてみることにしました。</div>
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ツイッターに関しては、人とくらべたらかなり距離を置き、依存しない程度に使っていたつもりですが、特に最近、ツイッターというメディアの悪いところばかりが目につくようになり、実際の使用時間とは関係なく、結局「ツイッターについて考えている時間」が多くなっていました。これが非常に不毛であり、精神的にも悪い状況であると考え、ツイッターを離脱することを決めました。そもそも何かwebサービスをやめることに関しては、まったくなんの躊躇も要らないはずなのに、ネットワーキングができてしまっていることで、どうにもやめづらい状況をつくっているというのがまた、SNSの特徴でもあるのですね。</div>
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ツイッターをやめるにあたっては、印象的な2つの出来事がありました。</div>
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まず、戸田真琴さんの以下のnoteの記事です。特に補足はしませんので、一読していただきたいと思います。</div>
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<a href="https://note.mu/toda_makoto/n/n7f9eaf91302e" target="_blank">https://note.mu/toda_makoto/n/n7f9eaf91302e</a></div>
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もう一つは、マルセル・プルーストという小説家の『失われた時を求めて』を読みはじめたことです。学生のころに、「読まねばならない」という強迫観念に追われるように冒頭を一読し、そしてすぐ放棄したのち、きっと一生読まないのだろうなと思ってさえいたのですが、先日本当に偶然のことでしたが、高遠弘美さんの光文社古典新訳文庫での翻訳の第1巻を読みはじめたところ、ページを繰る手が止められなくなってしまいました。こういうタイミングが、人生にはやってくるものなのですね。この本を読むにあたり、プロットは本当にどうでも良い。むしろ、文章そのものの色香…匂い出てくるとしか表現のしようがない、あまりにも豊かな表現の数かずを追っていくことの愉悦に、わたしは「文学」とその力を再発見でき、かれらへの絶対的な信頼の感覚を思い出すことができました。とても幸福な人間だと、わたしは自分自身について思いながら、この長い本を楽しんでいます。こうした圧倒的な表現の前に、140字の文章とは、その「表現」とはいったい何なのだろう、と思ったのでした。プルーストを前に、140字でそもそも何か語れると思うことは傲慢に近いとは思いませんか。</div>
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などなど。あとは、東浩紀さんがツイッターをやめられたり、様々な契機があり、こういう結論に至りました。</div>
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結局、元に戻るだけなので心配してくださらなくても大丈夫ですし、なんとかやっていけるんだろうと思っています。一言で言えば、自分が人間を信頼し続けていけるために、私はツイッターをやめたいと思ったということです。まだ人間を諦めません。共謀しましょう。これからも、迷いつづける私をどうぞよろしくお願いします。</div>
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まずは、『チェヴェングール』の翻訳を地道に進めています。刮目されよ。</div>
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<a href="https://junkdough.wordpress.com/chevengur/" target="_blank">https://junkdough.wordpress.com/chevengur/</a></div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-13243267619874003052019-11-07T23:11:00.002+09:002019-11-09T00:23:34.843+09:00クラースヌイ・ファーケル劇場「三人姉妹」<div>
久しぶりに、これは自分のために感想を書き残しておかねば……という鑑賞経験をしたので、クラースヌイ・ファーケル(レッドトーチ)劇場の来日公演『三人姉妹』(10/18-20@東京芸術劇場)について、感想を書き記したいと思います。あくまで、傍観者として、一観客としての鑑賞記録です。</div>
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<table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8pnghDcIoefi720hESIg80toDkMtiRJ3aeDC7mO2YHgszz-lZdiQ8bgSK7P9YrL1U2LMPyE01Z_dNRTs6mM40A4RFwtadVgdonCnJYZN2LqTdOPpv9zou9ycyoCRIjLBnBZ5Y1epdUjQ/s1600/EHG1clSVAAAcx4a.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="901" data-original-width="640" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8pnghDcIoefi720hESIg80toDkMtiRJ3aeDC7mO2YHgszz-lZdiQ8bgSK7P9YrL1U2LMPyE01Z_dNRTs6mM40A4RFwtadVgdonCnJYZN2LqTdOPpv9zou9ycyoCRIjLBnBZ5Y1epdUjQ/s400/EHG1clSVAAAcx4a.jpg" width="283" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">画像は、東京芸術劇場HPより</td></tr>
</tbody></table>
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チェーホフについていえば、わたしが成長=加齢するのに歩を合わせるように、その年どしでわたしは好きな戯曲に出会われてきました。大学1〜2年生のころは『かもめ』でしたし、大学後半では『ワーニャおじさん』でした。そもそもわたしは実際にすぐれた劇を見ることでしかチェーホフを自らの体験とし得ないできたわけで、『かもめ』についても『ワーニャ』についても、その時どきにある演出と出会うことによってチェーホフは「わたしの劇作家」になってきました(最初にみた『かもめ』はよく覚えていないが、重力/Noteの『かもめ』公演はわたしにとって特別な経験になっているし、『ワーニャ』は青山真治の演出やペテルブルグのMDTで見たことを覚えています)。そのようにして、今年のわたしにとっては、決定的な2本の『三人姉妹』を偶然立て続けに観たことで、2019年は『三人姉妹』の年となったと言うことができます。</div>
<br />
チェーホフの劇は、つねに夢、あり得たかもしれない別の現実、ここではないどこかをめぐって展開します。『かもめ』は挫折した夢を前に死を選ぶ劇でした。『ワーニャ』は取り返しのつかない挫折の後に、慰めつつもどうにかして“その後”を生きていく話です。それと比べるなら、『三人姉妹』はどうか? おそらく、話じたいは『ワーニャ』の延長線上にあって、夢の終わりに焦点が当てられていますが、相違点として挙げられることとして、まずは『三人姉妹』のほうがずっと生命に、現実にちかい劇であるということが言えないでしょうか。『ワーニャ』における結論とは、「時が来たら、おとなしく死んで行」くこと、それまではもう少しだけ辛抱することでした。そこにおいては、死後の目線から、現在のやり切れない生が思い出され、救済されます。しかしチェーホフにおいては、『かもめ』から『ワーニャ』を経て、『三人姉妹』・『桜の園』に至ると、死後から今を生きていくことに重点が移ってゆくように思います。「生きて行」くこと、わたしたちの生や苦しみの意味が「わかりさえすればねえ!」(『三人姉妹』)。「行きましょう」、「ここから、出て行きましょうよ」、「さようなら、古い生活」、そして「こんにちは、新しい生活!……」(『桜の園』)。<br />
<br />
しかしながら『三人姉妹』において、「その後を生きていくこと」は、両義的な意味合いを持っている。わたしが今年見た2本の『三人姉妹』は、この意味で好対照をなしていると言えます。わたしが見た『三人姉妹』は、9月のモスクワ旅行の際に見たモスクワのオレグ・タバコフ劇場のものと、ノヴォシビルスクのクラースヌイ・ファーケル(レッド・トーチ)劇場の来日公演の2つ。どちらもロシアの演劇らしく、4幕のチェーホフ劇をしっかりと4幕、おおきな省略・解釈抜きで演出しています。タバコフ劇場の演出(アレクサンドル・マーリン演出)は、上演中観客からの笑いが絶えない、非常に愛されるタイプの劇だったと言えます。姉妹3人の造形も、時に可愛らしく、時に切ない。総じて、物語を進行していく楽器のリズムが心地よく(「軍楽はあんなに楽しそうに鳴っている」)、オーソドックスな演出と言えるでしょう。そして最後の「生きていく」ことの決意は、当然シリアスなニュアンスで言われますが、それでも全体としての印象は明るいままであり、暖かい気持ちで見終わることができます。(ところで、チェーホフのこの「軍楽」です。なんと、チェーホフは恐ろしい作家なのでしょうか。まさに希望が断ち切られ、戻ることも先に進むことも許されず、無残に非情な現在のみが立ち現れるあの瞬間に、能天気な軍楽が流されるわけです。「どうだって、同じことさ……」。私たちのあいだには、こんなにもおおきな隔たりがある。)<br />
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<br />
一方、クラースヌイ・ファーケル劇場(以下「KF劇場」)の『三人姉妹』(チモフェイ・クリャービン演出)は、全体として、非常にシリアスで、緊張感に満ちた舞台でした(とはいえ、笑えるシーンももちろんいくつもあったことは付け加えておきます)。緊張感はいったいどこから醸し出されてくるのでしょうか? まず言っておかねばなりませんが、KF劇場の『三人姉妹』の最も顕著な特徴、それはロシア手話を用いた演劇であるということです。ただし、俳優たちの用いる言語がロシア手話ではあっても、厳密な意味で手話による演劇ではありません。つまり、クリャービンの演出において、手話はきわめて戦略的な表現の手段として用いられており[*註]、耳が聞こえるわたしとしては、音による会話が聞こえない分、その他の音に傾注することになる。すると、手話を用いていて、音とは縁遠いはずのこの演出には、むしろ音が充溢していることに気づかされるはずです。足音、ハンドクラップ、スマホの着信音、音楽、皿のぶつかる音、ハイヒール、笑い声……。ほとんど過剰なまでに音が立ち現れてきます。ですから受ける印象は、手話の演劇であるという先入観とはまったく正反対に、かなり「やかましい」劇であるというものです。時にはそれがインダストリアルなリズムとして感じられてくる瞬間も多くあり、その意味ではタバコフ劇場の演出とも通底したところはありそうです。そして俳優たちの肉体もまた、手先のみならず、動きに動きつづけます。「手話による劇」という条件が、まったく「制限」としては感じられず、むしろ豊かな表現の充溢として感じられてくるわけです。そこには嘘がない、という言い方はあまりに甘く響くにせよ、俳優たちの小手先的「ゆとり」が少なく、直球でぶつかってくるような感触の演劇です。音や肉体的な動き、さらに字幕付き公演ということから目で追うことになる字幕……こうした要素がかなりヘヴィーに五感に訴えかけてくるので、もちろん4時間あまりの演劇そのものは楽しみながらも、観客側もかなり神経を使う劇になっています。<br />
<br />
さて、チェーホフ劇で、登場人物たちの会話は常にお互いに通じず、すれ違っています。お互いにどこか疲れていて、自分のことに精一杯で、ほとんど独り言が羅列されているように見えます。つまり、ツイッター的なのですね。KF劇場の演出では、俳優は音声では会話しませんが、それを代弁するかのように、手話があり、あふれんばかりの物音があります。物音たちは、動かされる身体から、物と物の不意の接触から発せられます。音声でのコミュニケーションをあえて制約するコミュニケーションのなかで、それはあたかも、身体や物たちの発する気配・匂いのようなものとして耳で知覚されるのでした。音声がなくても、私たちはこんなにもコミュニケーションを欲している……しかし、それらのほとんどは、受け取られることがないまま消えてゆく(つんつん、という相手への接触がなければ、手話でのコミュニケーションは開始できない)。当然のことながら、溢れるばかりに発せられる物音は、登場人物の誰一人として、耳にすることがない(という設定です)。それらの受け手になれるのは、観客、それも「耳の聞こえる」観客のみ、というわけです。<br />
<br />
KF劇場の演出において、あの「わかりさえすればねえ!」は、ディスコミュニケーションの末の断末魔のようにも聞こえ、高まりゆく軍楽をかき消すかのように、ノイズの音声がいや増してゆき、あらゆる音を、つまりあらゆるコミュニケーションへの希望を、飲み込んでいくようにして劇が終わります。この演出は、チェーホフ劇のコミュニケーション(あるいはディスコミュニケーション)の問題をもっとも先鋭的なかたちで問いかけているとわたしには思われました。ぞくぞくするような冷たい興奮を感じながら、幕は閉じ、私たちはディスコミュニケーションの都を横切って帰路についたのでした。<br />
<br />
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<br />
(付記1)この演出における字幕を投影しながらのチェーホフ体験は、自分にとってはかなり良かったです。それは、セリフ回しに邪魔されないなかで、実際の劇の進行と俳優の動きを追いながら、逐語的にチェーホフの言葉遣いを吟味できたからです。それが古い神西清訳であったのも、まるで本を片手にした観劇といった趣きで、個人的には嫌いではなかったです(とはいえ、それが邪魔になったという意見も理解できます)。<br />
<br />
(付記2)チェーホフをいま、上演することの意味の半分くらいは、おそらく4戯曲のすべてが(強いて言うなれば)「女性をめぐる戯曲」になっているからじゃないかなと思っています。ちょっとそれを説得できる形で展開できないのですが、ニーナやソーニャ、3人の姉妹たち、桜の園の女たち……チェーホフの劇を思い返す時に、常に頭に生き生きと浮かんでくるのは、何よりも劇中の女性たちの姿ではないでしょうか。ついにこの野蛮な国でもフェミニズムが根付きつつあるいま、時代状況に巻き込まれる女性にじっと眼差しを注ぐチェーホフ劇はまだまだしっかりと読み返されてよいと直感しているのですが。<br />
<br />
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<span style="font-size: x-small;"><br />*註:「文化の盗用」を指摘する感想には、真摯に向き合わねばならないでしょう。</span></div>
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<span style="font-size: x-small;"><br /></span></div>
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<span style="font-size: x-small;">・文中の引用は、ちくま文庫の松下裕訳を主に参照しています。</span></div>
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<span style="font-size: x-small;">・下記HPを参照しました。</span></div>
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<span style="font-size: x-small;">東京芸術劇場公演ページ:<a href="https://www.geigeki.jp/performance/theater221/" target="_blank">https://www.geigeki.jp/performance/theater221/</a><br />オレグ・タバコフ劇場(Московский театр Олега Табакова):<a href="http://www.tabakov.ru/performances/tri_sestry/" target="_blank">http://www.tabakov.ru/performances/tri_sestry/</a><br />クラースヌイ・ファーケル劇場(Новосибирский государственный академический театр «Красный факел»):<a href="http://red-torch.ru/program/info/three-sisters/" target="_blank">http://red-torch.ru/program/info/three-sisters/</a><br />utikenさんの感想:<a href="https://note.mu/utiken/n/nd7404a6a8c7c" target="_blank">https://note.mu/utiken/n/nd7404a6a8c7c</a></span></div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-66638579577733700522019-09-18T23:14:00.007+09:002019-09-21T21:02:49.509+09:00これが死後の世界なのかもしれない@ロシア(2019年09月)<h4>
#概要</h4>
2013-14年にかけてのペテルブルグ留学からおよそ5年の時を経て、ふたたびロシアに帰省する僥倖に浴したので、旅行のメモを書き記しておきたいと思います。5年ばかりのギャップですが、自分が留学していたころとはかなり(良い方向に)変わった部分も多く、ストレスをほとんど感じない旅であったことに、わたしは新鮮な驚きと嬉しさを感じています。<br />
<br />
今回の旅は、9/8~15までの一週間で、モスクワとペテルブルグ、そしてニコラ=レニーヴェツ村(N-L)をそれぞれ2日ずつ訪問する日程です。<br />
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(8)モスクワ着→(9)モスクワ~N-L移動→(10)N-L滞在→(11)N-L~モスクワ移動→(12)モスクワ~ペテルブルグ移動→(13)ペテルブルグ滞在→(14)ペテルブルグ~モスクワ移動→(15)成田着<br />
<br />
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<iframe allowfullscreen="true" frameborder="1" height="300" src="https://yandex.com/map-widget/v1/-/CGcAID5Y" width="400"></iframe><br /></div>
<br />
<br />
今回の旅の主眼は、ニコラ=レニーヴェツ(Никола-Ленивец)。ゲンロンカフェで行われた高橋沙奈美さん・本田晃子さん・上田洋子さんの対談(「<a href="https://genron-cafe.jp/event/20190416/" target="_blank">ツーリズムとナショナリズムからみる現代ロシア</a>」@2019.4.16)を拝聴したのがきっかけとなり(その後この対談の誌面構成をお手伝いする縁もあって→<a href="https://genron.co.jp/shop/products/detail/236" target="_blank">『ゲンロン10』</a>)、「次に行くなら絶対ここ」リストに入れていたのですが、もう今年行くしかないと思い、交通事情の心配はあったものの、思い切って計画を始めてみました。モスクワとペテルブルグの両首都には滞在経験があるので、今回は滞在のテーマを【ファッションと独立系書店】と仮に決めて、事前にいろいろリサーチしていくことにしました。<br />
<br />
計画をはじめたのち、以前からロシアに興味を持ってくださっていた<a href="http://www.jyuuryoku-note.com/" target="_blank">重力/Note</a>の鹿島将介さん(<a href="https://twitter.com/shikanobu" target="_blank">@shikanobu</a>)をお誘いしたところ、一緒に行くことになり、我われロシア夫婦2人+鹿島さんの3人での旅行となりました。はじめてのロシアでただでさえよく分からないことも多かったでしょうに、なおさらこのような訳の分からない旅行に同行し、そのうえ楽しんでいただいたことには感謝しかありません。私たちも、ロシアのために心から嬉しい旅でした。<br />
<br />
以下、写真多めです。<br />
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<a name='more'></a><br />
<h4>
#事前準備</h4>
個人旅行でロシアに行ったことがないため、ビザの取得方法についていろいろリサーチした結果、次のやり方を採りました:TravelRussia.su (<a href="http://www.travelrussia.su/" target="_blank">www.travelrussia.su</a>)で空バウチャー取得→ロシア大使館で予約・ビザ申請→Booking.comで宿予約。この過程でかかったのは、空バウチャー取得のための899ルーブル(約1500円)のみです。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh4qyW6gdVVVTs1JwXv-5ckH-2fAuCQw1ReJVvwxUQB5QbGcPmTJmz86AvD2-oHfrgnqVLhXwCJ5eJQBEBjeqsPfrxM2FfH-UUGbX3QBF1hkSM3ghYeUbhNNGLWovRg_mJPG7MzdiiwVZE/s1600/EDAoIamVUAAkWF_.jpg-large.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh4qyW6gdVVVTs1JwXv-5ckH-2fAuCQw1ReJVvwxUQB5QbGcPmTJmz86AvD2-oHfrgnqVLhXwCJ5eJQBEBjeqsPfrxM2FfH-UUGbX3QBF1hkSM3ghYeUbhNNGLWovRg_mJPG7MzdiiwVZE/s320/EDAoIamVUAAkWF_.jpg-large.jpeg" width="320" /></a></div>
<br />
大使館公認のぼったくり=ビザサポートセンター「Interlink」が始動していたので、どんなもんかなと思ったのですが、ロシア大使館の予約も取れることは取れました。ただ、最適な日程が選択できるとは限らないので、急ぎの場合・お金に余裕がある場合はInterlink利用をおすすめします。<br />
<br />
大使館でビザを申請するため、まずビザ申請のウェイティングリストに登録します。その約4日後に空き日程が表示されたところ、旅行の1週間前からの受領が最短だったので、少し怖かったですが、とりあえず予約してみました。その約1週間後に予約の変更を念のため試みてみたところ、より余裕を持った日程が選択できたので、そちらに予約を移し、旅行の2週間前くらいに受領する余裕の日程で申請ができました。…とこんな前時代的な感じなので、あまりおすすめはしません。<br />
<br />
<h4>
#お役立ちアプリ、ネット接続について</h4>
今回役立ったアプリなどをいちおう記しておきます。<br />
<br />
・<a href="https://apps.apple.com/jp/app/yandex-taxi/id472650686" target="_blank">Yandexタクシー</a>:uberタクシーのロシア版。とっても便利、レニーヴェツ行きでも使用可。大手のвезётがやっている<a href="https://apps.apple.com/jp/app/rutaxi-%D0%BE%D0%BD%D0%BB%D0%B0%D0%B9%D0%BD-%D0%B7%D0%B0%D0%BA%D0%B0%D0%B7-%D1%82%D0%B0%D0%BA%D1%81%D0%B8/id506360097" target="_blank">Rutaxi</a>も導入していたのですが、今回は使わなかったので使い心地は不明(ただロシアの携帯番号登録が必須なので、SIMを買わない人には使えないかも)。<br />
・<a href="https://apps.apple.com/jp/app/2gis-maps-navigation/id481627348" target="_blank">2GIS</a>:ロシア語圏定番のオフラインマップ。都市部ではバスなどの路線検索もできて便利。ただ旅の後半、電池の減りが早くなったのはこのアプリのせいかもしれません。<br />
<br />
ネット接続については、空港でbeelineの2週間制限なし(電話+インターネット)プラン(600ルーブル)のSIMを購入しました。レニーヴェツではさすがに圏外が多かったですが、公園中いろんなところでWi-Fiが使えたので、旅行をとおして全く問題なかったですね。<br />
<br />
<h4>
#入国・出国</h4>
今回は安さ重視でS7航空を初利用。往復7万円程度で、預け荷物ありプランにしたら1万円くらい高くなっちゃいましたが、結局我われはミニマル志向なので預け荷物は不要でしたね。手荷物10kgは結構な容量です。S7航空、機内食もかなりおいしかったし、充実でした。どの便も、予定時刻のかなり前に到着していたのでそれも素晴らしい。<br />
<br />
直行便に比べて、乗り継ぎ便も、途中で腰を伸ばせることと、シベリアを一目見れるのでなかなか良かったです。今回の経由地は、ノヴォシビルスクとイルクーツク。初めて空バウチャーを使うので内心ビビってはいたのですが、地方空港のゆえか審査官や検査官も柔和で、こういう良さもあるのか~と思いました(検査官がめちゃ友だちみたいに話しかけてくる)。今後も経由便を積極的に使いたいですね。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPdbMcCWOXEORDS1kjmagV09_PPYrOg2qRUUXJkLJRl_ESrp2RAAuQrl7cuR6tTUs_fY9HVi57h13wZhJK73iVUCAveh56lWozKcFd0UY7AZP9Qon1-TU9E1aeuslkpyM6WJsraWNGMTU/s1600/ED5iPvMU8AAv_l1.jpg-large.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjPdbMcCWOXEORDS1kjmagV09_PPYrOg2qRUUXJkLJRl_ESrp2RAAuQrl7cuR6tTUs_fY9HVi57h13wZhJK73iVUCAveh56lWozKcFd0UY7AZP9Qon1-TU9E1aeuslkpyM6WJsraWNGMTU/s320/ED5iPvMU8AAv_l1.jpg-large.jpeg" width="320" /></a></div>
<br />
(*ただ、一点書いておきたいですが、イルクーツクの国内⇔国際乗り継ぎはかなり分かりにくいです。いったん外に出て別のターミナルに移動する必要があり、また国際線のチェックインカウンターの前に税関があるというよく分からない動線になっており、下手するとチェックインに遅れます。ご注意を。)<br />
<br />
<h4>
#ニコラ=レニーヴェツ</h4>
さて、今回の旅の主眼、ニコラ=レニーヴェツへ(<a href="http://nikola-lenivets.ru/" target="_blank">http://nikola-lenivets.ru</a>)。ここでは毎年、<a href="https://www.stoyanie.ru/" target="_blank">Arkhstoyanie</a>(アルフスタヤーニエ)という国際建築=アートフェスティヴァルが催されていたり、また訪問の数週間前には音楽フェスも開催されていたようです。わたしたちの旅行はそうしたフェスにはぶつからず、平穏なレニーヴェツ村にのんびりと滞在することができました。<br />
<br />
モスクワからは、キエフスキー駅から出る近郊電車(エレクトリーチカ)でカルーガまで行き(3~4時間)、そこからタクシーで向かいます(1~2時間)。タクシーを捕まえられるかどうかが不安だったのですが、yandexタクシーを信じ、とりあえず近郊電車に乗り込むことにしました。絶えず車内販売のある、いつもどおりの近郊電車の風景。嬉しくなっちゃいますね。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigCo4M3l2eT2l4rWT0ho69vx0xzuQJftCr-tLj4XQxdM818YIImaCNGD3qWxT5tj24l-4dffqny_ll506egHHIoRdJSSvuiklNlI-hJshyphenhyphen22l9FT4tNfZeTMH7uLT4qOa_y_nQdtiNQ5o/s1600/IMG_9855.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1196" data-original-width="1600" height="239" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEigCo4M3l2eT2l4rWT0ho69vx0xzuQJftCr-tLj4XQxdM818YIImaCNGD3qWxT5tj24l-4dffqny_ll506egHHIoRdJSSvuiklNlI-hJshyphenhyphen22l9FT4tNfZeTMH7uLT4qOa_y_nQdtiNQ5o/s320/IMG_9855.jpg" width="320" /></a></div>
<br />
カルーガのショッピングセンターでご飯を食べた後、いざyandexタクシーで目的地を入力、タクシーを検索します。するとすぐ見つかったのでホッとして呼んでみます。経路はこんな感じ。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="true" frameborder="1" height="300" src="https://yandex.fr/map-widget/v1/-/CGcABCyb" width="400"></iframe><br /></div>
<br />
バイパスから離れてから40分くらい、完全に未舗装の道路と、中途半端に舗装してある(ゆえに未舗装よりひどい)道路が断続的につづき、かなり腰にしんどい道がつづきます。行きはyandexで来た、悪路の連続に対しても悪罵の一つも吐かない非常に温厚で、丁寧な運転の運転手さん、帰りは地元のタクシー会社の無言かつものすごいテクニックとスピードでフォードを乗りまわす若者で、どちらもまったく嫌な感じを受けることのない人たちで素晴らしかった。料金は平均して片道2000ルーブル程度です。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi1WGm8oT5m5D865EpTKmsaEtZLCDrURunouZmdnLOzeyrEFa8Oax0ejkIjmDG5vOBdHs8xRdur3cqE4DxirpjfwYjsfCKTZ3TZOu0ZAQToIIyY57qrm5Mq97qh-TsL4z4DQNAOTAyb12U/s1600/2019-09-09+15.45.22.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi1WGm8oT5m5D865EpTKmsaEtZLCDrURunouZmdnLOzeyrEFa8Oax0ejkIjmDG5vOBdHs8xRdur3cqE4DxirpjfwYjsfCKTZ3TZOu0ZAQToIIyY57qrm5Mq97qh-TsL4z4DQNAOTAyb12U/s320/2019-09-09+15.45.22.jpg" width="320" /></a></div>
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アートパークは、ウグラー国立公園(978㎢)の中にあって、6-7㎢ほどの敷地のなかに巨大なアート作品がまるで異星人からの置き土産のようにしてぼつりぼつりと立っています。日本との比較で言えば、阿寒国立公園が900㎢ほどだそうです。公園の地図は、<a href="http://nikola-lenivets.ru/booking/" target="_blank">宿泊予約のページ</a>中央の四角で囲まれた場所からダウンロードできます(やたらに高画質)。<br />
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今回の旅行は、ペテルブルグでの一日を除けば、天気はもう最高でしたね。あとはここはごはんも超おいしい(Kafe Ugra)。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDN8oK2Iv5gmAKon05XzOnFs23QFmyjAhJZcGCgRW8QLiE4dDtkJLUuyWq82zd5WKO6E4jGYyVb7O2VTm4DhSWi_gAEowGxxBFnPmSXr0cpY4I7NztjqQdJ2cXCvlMEgZgxcQbdNVjgtI/s1600/2019-09-09+16.29.41.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhDN8oK2Iv5gmAKon05XzOnFs23QFmyjAhJZcGCgRW8QLiE4dDtkJLUuyWq82zd5WKO6E4jGYyVb7O2VTm4DhSWi_gAEowGxxBFnPmSXr0cpY4I7NztjqQdJ2cXCvlMEgZgxcQbdNVjgtI/s200/2019-09-09+16.29.41.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhedtgZ4yGwfSR_AzX4tVY78y88b8BSRS3HqHcyE7iwtDVQ7jAnQnEo9BOgJlq7V-kTCXEG9FnD5Ug4E-DrMBZHhrnMr9YsIRmEE-vwrntCD6lLUZRBHUvgklHx0-hcfXQLZygcVXlj33s/s1600/2019-09-09+17.37.54.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhedtgZ4yGwfSR_AzX4tVY78y88b8BSRS3HqHcyE7iwtDVQ7jAnQnEo9BOgJlq7V-kTCXEG9FnD5Ug4E-DrMBZHhrnMr9YsIRmEE-vwrntCD6lLUZRBHUvgklHx0-hcfXQLZygcVXlj33s/s200/2019-09-09+17.37.54.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjLETOEwmrceOsKcgVaz47BUoGo1LPUBpZKXFT0pb7uzN_e4Aimt0P_f_akXx48i2jvr6ugVosF1_m0eBp061QqdtLHL7p-1OV2Cm2AzWmFEEmucSSKkBhO28SYGYc7jziCR8Pyr145S_g/s1600/2019-09-09+18.18.09.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjLETOEwmrceOsKcgVaz47BUoGo1LPUBpZKXFT0pb7uzN_e4Aimt0P_f_akXx48i2jvr6ugVosF1_m0eBp061QqdtLHL7p-1OV2Cm2AzWmFEEmucSSKkBhO28SYGYc7jziCR8Pyr145S_g/s200/2019-09-09+18.18.09.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitFhI4Mc3LvCYQ9ySao5i-MPXeqtLm5wVMWWgK-h8HA5b3Jd3f4YYCTsY6VH6VVXlj41BW1x6M9lwJS_S7EUYJw2YUTap0I7cb-uSZPLvC2sUqDyqUx8RwVdC-ZCU0VEWUtQtEjcsYGFU/s1600/2019-09-10+06.19.02.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEitFhI4Mc3LvCYQ9ySao5i-MPXeqtLm5wVMWWgK-h8HA5b3Jd3f4YYCTsY6VH6VVXlj41BW1x6M9lwJS_S7EUYJw2YUTap0I7cb-uSZPLvC2sUqDyqUx8RwVdC-ZCU0VEWUtQtEjcsYGFU/s200/2019-09-10+06.19.02.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjD-r57B4Fu5u6WQisFiEJ4c2gt3pSANCOVM4piIb52ktBcSzIhffkNZn7RR-xmy2Xy4_x-3-nSmSqREOrOLJZDu4PtRVJgvuDzMoMtjUMA3WXAMwUw8RonMePJ_U5S1Z3l10sXeeVb4rg/s1600/2019-09-10+06.55.41.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjD-r57B4Fu5u6WQisFiEJ4c2gt3pSANCOVM4piIb52ktBcSzIhffkNZn7RR-xmy2Xy4_x-3-nSmSqREOrOLJZDu4PtRVJgvuDzMoMtjUMA3WXAMwUw8RonMePJ_U5S1Z3l10sXeeVb4rg/s200/2019-09-10+06.55.41.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEilFSPQ7F1O2YCuahUbqodd_X9VquSJHVfF5K29IbZYat6kRxr8wMCdArfAuUZvhRK1xpfofvKjFh8IDMhhdXdKXjlSDZ5GbOGUH2crTV2AmJPOAO7Rx6noyi1Yo2Lc2C_TC5qIfP5g2ac/s1600/2019-09-10+13.33.16.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEilFSPQ7F1O2YCuahUbqodd_X9VquSJHVfF5K29IbZYat6kRxr8wMCdArfAuUZvhRK1xpfofvKjFh8IDMhhdXdKXjlSDZ5GbOGUH2crTV2AmJPOAO7Rx6noyi1Yo2Lc2C_TC5qIfP5g2ac/s200/2019-09-10+13.33.16.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhGdJiGsi35A7GrKXKoGA90uiIT9XBjhCb-I5t3EHjLr-cv_GfB52-wqAYCXdfL9d3nUWWWDfoXZ_AYQ-ebBeEMkMr8N5pZ2oGAgDTF917ri36eDatmGFEqGL4BJIfUdOxXZIVQdT4i06o/s1600/2019-09-10+17.35.23.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhGdJiGsi35A7GrKXKoGA90uiIT9XBjhCb-I5t3EHjLr-cv_GfB52-wqAYCXdfL9d3nUWWWDfoXZ_AYQ-ebBeEMkMr8N5pZ2oGAgDTF917ri36eDatmGFEqGL4BJIfUdOxXZIVQdT4i06o/s200/2019-09-10+17.35.23.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMp79gXt5E5y-rZqdEUqzYAVHcE-n5EhUDrJJepLRVOP3Xp0SbqEcHPAeCaieGm3CKuXTxSwfiALXUdeE7wewqljmiTFVnffOBZSOUK8VsjdW64PDk81SFFH5Ow06L3qhgSU2RlVJdGoU/s1600/2019-09-10+18.20.51.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhMp79gXt5E5y-rZqdEUqzYAVHcE-n5EhUDrJJepLRVOP3Xp0SbqEcHPAeCaieGm3CKuXTxSwfiALXUdeE7wewqljmiTFVnffOBZSOUK8VsjdW64PDk81SFFH5Ow06L3qhgSU2RlVJdGoU/s200/2019-09-10+18.20.51.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8SMPuTpy5OtkSpljZSOykMfUYEj6s_h52x-E-dGyNaPvwtlQkvlg_byV5e1J32DWRjiB0lhPK0qtIkUCEnxbu4aTj-ebaMT7gmnlNPWYs3gIa3V_L2ErJppFdVgfbGWqDIcd99oGC2Lo/s1600/20190909_182132.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi8SMPuTpy5OtkSpljZSOykMfUYEj6s_h52x-E-dGyNaPvwtlQkvlg_byV5e1J32DWRjiB0lhPK0qtIkUCEnxbu4aTj-ebaMT7gmnlNPWYs3gIa3V_L2ErJppFdVgfbGWqDIcd99oGC2Lo/s200/20190909_182132.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj5xIY2fOv7jiNEt1YNhI8sFVqU9XJUD4-X03cIIE_reoT-iG_bf-Rusyq6PJPYNQMaHn32LWliZmc5zxr3E0_1QsV7bA33KfocWUP1RueXvHNVTPuV9d7svywydIPZcJ2pC6da-5GofSA/s1600/20190909_203612.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj5xIY2fOv7jiNEt1YNhI8sFVqU9XJUD4-X03cIIE_reoT-iG_bf-Rusyq6PJPYNQMaHn32LWliZmc5zxr3E0_1QsV7bA33KfocWUP1RueXvHNVTPuV9d7svywydIPZcJ2pC6da-5GofSA/s200/20190909_203612.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijAwXQMh1wgWbHIFd0fSQbOkErM00kw5IlMK9HBKyJobsgNZlorSkcIWUkYB4Uw7ojdtdLuNI3mJ7EaM4ICk4upZtzupUib5sUmmGHgX1D31taBNP0matXOWEZBpgxWUDuMtycC2mGRU4/s1600/20190910_143210.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijAwXQMh1wgWbHIFd0fSQbOkErM00kw5IlMK9HBKyJobsgNZlorSkcIWUkYB4Uw7ojdtdLuNI3mJ7EaM4ICk4upZtzupUib5sUmmGHgX1D31taBNP0matXOWEZBpgxWUDuMtycC2mGRU4/s200/20190910_143210.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEik6uIzeT7NBMq9CRVcVwoM88XL5fDvX_bkISLguV0lVV4g5v63ED-6c-IMNLb55Xg0BpElu5peJqNwDOLIuJp6dVwCBNB4V_Zb_14UJJwUwAXWAcQ0UH2YM2iR6QmaKJx-RpH6oECU1Lc/s1600/IMG_0146.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEik6uIzeT7NBMq9CRVcVwoM88XL5fDvX_bkISLguV0lVV4g5v63ED-6c-IMNLb55Xg0BpElu5peJqNwDOLIuJp6dVwCBNB4V_Zb_14UJJwUwAXWAcQ0UH2YM2iR6QmaKJx-RpH6oECU1Lc/s200/IMG_0146.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjpJl5JVEoWIkjZW0Oo8ymSpVaB-qAfOtFstLnth6ryWAAxP3pEqYa_vdzxMv-_-BGkjjJvkcV3FiB9jJTRDwlqcQ9FCCG2GO7KypWaxaeW_f_NuMCt5gau2pxwoJnornB2bGiWm9dh1fU/s1600/IMG_9957.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjpJl5JVEoWIkjZW0Oo8ymSpVaB-qAfOtFstLnth6ryWAAxP3pEqYa_vdzxMv-_-BGkjjJvkcV3FiB9jJTRDwlqcQ9FCCG2GO7KypWaxaeW_f_NuMCt5gau2pxwoJnornB2bGiWm9dh1fU/s200/IMG_9957.jpeg" width="200" /></a></div>
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写真をすこし見ていただけるとお分かりかとおもうのですが、いや〜ここどこだっけ?という感じ。もう、とにかく全部見て回ろうという意気込みで、自転車を借りて1日じゅう駆けまわっていましたが、それでも見残しがあったくらい広い・アップダウンが激しい・いちいち美しい。「死後の世界」ってこういう感じなんじゃないかね、みたいなことをしゃべりながらいろいろ周り、疲れては寝て、カフェで飯を食って……というような、ここは天国か、という感じでした。<br />
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今回はせっかくなら変なところに泊まってみたくて、一日目はShtab(設計:ALYCHA/АЛЫЧА)というスケートボーダーのための家、二日目はKlever(設計:Mel Space)というコンパクトだけれど窓が大きい家に泊まりました。どちらもハエがやたら多いのを除けば、蚊やアブ、ダニなど刺してくるような害虫に悩まされることはなかったですし、シャワーもちゃんとお湯が出ました(重要)。<br />
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なんかもう人生の一つの到達地点じゃないか、という感じで、魂のデトックスをしてまいりました。<br />
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<h4>
#モスクワ・ペテルブルグ</h4>
モスクワとペテルブルグに関しては、どちらも我われ夫婦は行ったことがあるので、先に書いた通り、今回は【ファッションと独立系書店】をテーマにめぐりました。<br />
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<b><u>〇モスクワ</u></b><br />
こちらは時間的な制限で、書店としては<a href="http://falanster.su/" target="_blank">Falanster (Фаланстер)</a>、ファッションについてはデパート<a href="http://www.tsvetnoy.com/" target="_blank">Tsvetnoy/Цветной</a>と<a href="https://www.km20.ru/" target="_blank">KM20 (КМ20)</a>(クソ高い)しか行くことができませんでしたが、一つ素晴らしい経験だったのが9月14〜15日にかけてInLibertyというカルチャースペースで開かれていた<a href="https://www.inliberty.ru/event/rassvet-book-fair/" target="_blank">ブックフェア「Rassvet」</a>をのぞけたことです。<br />
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<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ru">
<div dir="ltr" lang="ja">
モスクワのInLibertyというカルチャースペースで開かれていたブックフェア「RASSVET」の様子(9/14-15)。かまくらブックフェスタのような感じといえばいいか。新しい出版社が多く、会場はかなり熱気が。今のロシア出版界を支える人たちが一堂に会す貴重な機会でした。<a href="https://t.co/clXapkPJQy">https://t.co/clXapkPJQy</a> <a href="https://t.co/xjUprYQIH8">pic.twitter.com/xjUprYQIH8</a></div>
— 日本におけるロシア宇宙主義(ゆめみるけんり) (@junk_dough) <a href="https://twitter.com/junk_dough/status/1174311296067485698?ref_src=twsrc%5Etfw">18 сентября 2019 г.</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script> <br />
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Rassvetは出版社の文芸フリマ(とかかまくらブックフェスタ)のような感じで、書店と出版社、ネット書店が合計で30社ほどブースを出し、自社商品のプレゼンテーションをするとともに、ホールでは様々な出版関係者が入れ替わり講演を行っていました。ここに行くことができたおかげで、ロシアの出版事情のおおよそを概観することができ、書籍だけで知っていた出版社の人の顔、またロシアの人文系読者層の顔ぶれを見ることもできたという意味で非常に得がたい経験となりました。ここでは、詩人レオニード・アロンゾン関連書籍を精力的に出している出版社<a href="https://brbrs.ru/" target="_blank">Barbaris/Барбарис</a>で詩集を購入し、またロシアのzineのwebショップ<a href="https://www.benzine.store/" target="_blank">BENZINE</a>のブースでいくつかzineを買ってみました。<br />
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モスクワでもうひとつ、シューホフ塔参りのついでに足を延ばした「<a href="https://www.nashabolovke-gallery.com/" target="_blank">シャーボロフカ・ギャラリー(Na Shabolovke Gallery/Галерея на Шаболовке)</a>」で開かれていたアレクセイ・ガースチェフに関する展示「ガースチェフ:いかに働くべきか(Гастев. Как надо работать)」展に行きましたが、これが素晴らしい。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjy64e2G5cRh4FV7F4Y3yegZ_Xm0rFKW4_ngU9ZmdyYmY6z4v3iU4QVHx2e5OTdZRD9kHw9HPP7pYAVRNVqCE94bh_uNdK2y3lFhD5J3SgcupIWW7Kdzipo09XcQv06hlrxFGPQgPfQAuU/s1600/2019-09-14+13.35.32.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjy64e2G5cRh4FV7F4Y3yegZ_Xm0rFKW4_ngU9ZmdyYmY6z4v3iU4QVHx2e5OTdZRD9kHw9HPP7pYAVRNVqCE94bh_uNdK2y3lFhD5J3SgcupIWW7Kdzipo09XcQv06hlrxFGPQgPfQAuU/s200/2019-09-14+13.35.32.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhfJNefXkZVvNHrZEm93DJsbiIJghlP-hBNtQM0TQz1WjfDSq6Lt6shSNlDRB90oJ9MsHF4L8uWQvNHw_DzKKW992aS5LEotKtLeVmTMQ2RtSr4OModiqj87gCURYBzUTgHzyXltKGqVhI/s1600/2019-09-14+13.40.51.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhfJNefXkZVvNHrZEm93DJsbiIJghlP-hBNtQM0TQz1WjfDSq6Lt6shSNlDRB90oJ9MsHF4L8uWQvNHw_DzKKW992aS5LEotKtLeVmTMQ2RtSr4OModiqj87gCURYBzUTgHzyXltKGqVhI/s200/2019-09-14+13.40.51.jpg" width="200" /></a></div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj1oPWJcWOs6u_Y6Fq2qGgXNzzjAaS8WdCCIQ1uxPKoY-KtA08Ys-aavdGH0lkZnvOvFDE_mQQus648Ix1FlSkRiqbiGSo9BA8bfXKBtzC2UfkkcZuyCZtMYo-BZcr9j5jJ9YLgp0zPpy8/s1600/2019-09-14+14.07.28.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj1oPWJcWOs6u_Y6Fq2qGgXNzzjAaS8WdCCIQ1uxPKoY-KtA08Ys-aavdGH0lkZnvOvFDE_mQQus648Ix1FlSkRiqbiGSo9BA8bfXKBtzC2UfkkcZuyCZtMYo-BZcr9j5jJ9YLgp0zPpy8/s320/2019-09-14+14.07.28.jpg" width="320" /></a></div>
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日本では、ほとんど佐藤正則さんの『ボリシェヴィズムと〈新しい人間〉』でのみ(あとは古いですが、労務管理の観点から宮坂純一『ソビエト労務管理論』くらいでしょうか)紹介があるプロレトクリトの詩人で、労働の科学的組織化(NOT)を唱え、中央労働研究所(TsIT)を率いたガースチェフの全容を解明する展示。ギャラリー自体は小がらながら、様々なアーカイブ機関とも協力した充実した展示になっています。こんなに資料が残ってたんだ!と感嘆を禁じ得ない展示でした。図録の販売がなかったのが悔やまれます。<br />
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<b><u>〇ペテルブルグ</u></b><br />
留学から5年後の再訪で、なんだか奇妙な感覚に陥りましたが、すこし歩いているうちに、「おれの街」という感覚が戻ってきて、呼吸をするように歩くことができました。そういう感覚、なんだか奇妙だけれど、とても心地よいですね。<br />
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書店としては、ネクラーソフ通り(ул. Некрасова)に移転した<a href="https://www.vse-svobodny.com/" target="_blank">Vse Svobodny/Все свободны</a>と、その近くの独立系書店<a href="https://vk.com/vvgolos" target="_blank">Vo Ves Golos/Во Весь Голос</a>と<a href="https://vk.com/frngt" target="_blank">Fahrenheit 451/Фаренгейт 451</a>、お邪魔してみました。やっぱり空間の使い方がぜいたくで、建築資産に困ることのないペテルブルグがうらやましくなります。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmMSCgxV8eMU4VqLMFEl1e089CoX5Wmr4w1KGQOK6g-K2jURnc4S4IF5SioqXG41By5wujXcfHke4rj_2tnLMeWmz7XsocTjMT3QIMp48rVDhjhHYgyvXUQy9DgGVVjuhviCyO6q98TL8/s1600/2019-09-13+15.07.18.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgmMSCgxV8eMU4VqLMFEl1e089CoX5Wmr4w1KGQOK6g-K2jURnc4S4IF5SioqXG41By5wujXcfHke4rj_2tnLMeWmz7XsocTjMT3QIMp48rVDhjhHYgyvXUQy9DgGVVjuhviCyO6q98TL8/s200/2019-09-13+15.07.18.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEio_t_cSvZk9gZbGQV8Hi7508awrxmaTv86i76W80OAbkpkvq5313AmTNSfXLrQv6F-hFRylWjC3c85XWbb57DiAzJo95ZSDmv9-Migqu6RKxBAuYpvOK4hQTpwH21lfRhlshTstmDKTnQ/s1600/20190913_152919.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEio_t_cSvZk9gZbGQV8Hi7508awrxmaTv86i76W80OAbkpkvq5313AmTNSfXLrQv6F-hFRylWjC3c85XWbb57DiAzJo95ZSDmv9-Migqu6RKxBAuYpvOK4hQTpwH21lfRhlshTstmDKTnQ/s200/20190913_152919.jpg" width="200" /></a></div>
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ファッション関連では、おなじ界隈にあるペテルブルグ発アパレル<a href="https://www.nnedre.com/" target="_blank">NNedre</a>(ミニマルめ)と、モイカ河岸通りのデパート<a href="https://aupontrouge.ru/" target="_blank">Au pont rouge/У красного моста</a>へ。モスクワのTsvetnoyも楽しかったですが、Au pont rougeは非常に回りやすい印象がありました。価格帯もすこし抑えめで、あと日常的に着れそうなものの取り揃えが多かったような。建物自体もとてもシック。ここでは<a href="https://www.dvamyacha.ru/" target="_blank">Dva Myacha/Два мяча</a>のスニーカーを購入。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEib2-yBdbwel7V_pWAGE0tRw12D_opM36-SMSCKgBbC6SKl-rGn-w9wIFuuesUDwwWP7jwDJ65n5pxeLorGUwXTyZordyRYKbkhSBAMvOaMnLrlhtKZJ5IphCZB7iAXUvh-ABZBuWYaIUg/s1600/2019-09-13+21.17.00.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEib2-yBdbwel7V_pWAGE0tRw12D_opM36-SMSCKgBbC6SKl-rGn-w9wIFuuesUDwwWP7jwDJ65n5pxeLorGUwXTyZordyRYKbkhSBAMvOaMnLrlhtKZJ5IphCZB7iAXUvh-ABZBuWYaIUg/s200/2019-09-13+21.17.00.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCHCnWRAMTBI89nJzS7Q2mwimPYLpzHdBmUSRzZJBpkXkzeHDCSAehgJ8AIR_xeYOXfFNIiYeJuTNdgNRPbah4xClXkfquRc9ooZdDhnpu06cuqrna3ndifLSKE5m6K0ugWnl9140mQcE/s1600/20190913_214304.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgCHCnWRAMTBI89nJzS7Q2mwimPYLpzHdBmUSRzZJBpkXkzeHDCSAehgJ8AIR_xeYOXfFNIiYeJuTNdgNRPbah4xClXkfquRc9ooZdDhnpu06cuqrna3ndifLSKE5m6K0ugWnl9140mQcE/s200/20190913_214304.jpg" width="200" /></a></div>
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それから、特筆しておきたいのが、フォンタンカ河岸通り(Наб. реки Фонтанки)にあるカルチャースペース<a href="https://luna-info.ru/spaces/golitsyn-loft/" target="_blank">Golityn Loft/Голицын лофт</a>です。ここには<a href="https://tykva.store/" target="_blank">TYKVA</a>という品ぞろえがよいセレクトショップ目当てで偶然訪問したのですが、全体として雰囲気が素晴らしい。おそらく、一度廃墟になった貴族の館を若い人たちがリノヴェイションして(一部は廃虚のまま)使っているスペースで、全体でいくつかの棟があり、それぞれ3階くらいまでカフェや服飾、雑貨、レストランなどが入っています。ホームページにあるように「街のなかの街」、まさにそういう感じ。なにが、といわれると困るのですが、自分がもしいまペテルブルグに住んでいたら、きっと週一で通っちゃうな、という居心地のよさ。若いロシア人のちょっとスノッブな感じもいい。<br />
中のカフェthe doris dayは、おれが座るや否やジョイ・ディヴィジョンかけてくれるし、もう「わかってる」感が最高で、さらにチーズケーキがこの世のものとは思えないほど。<br />
TYKVAは店員さんが素晴らしいので、どんどんお勧めを聞いてみるといい感じです。わたしはお勧めにしたがい、KiTAというペテルブルグブランドの服を試してみました。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDDCFEzb86UYgWgdetsPlaBoH8wPA96ItI_cJBVpe_eq8k7HIQC6d_pvTqJZjNpYMwsIjc9PTxWu-gAsMaAwQG9kUrAZO_fRTO9gCwfADngfsbRvIVnYh_7ZVQhn4x_LM4f8di9dlQObg/s1600/20190913_161155.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="900" data-original-width="1600" height="112" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiDDCFEzb86UYgWgdetsPlaBoH8wPA96ItI_cJBVpe_eq8k7HIQC6d_pvTqJZjNpYMwsIjc9PTxWu-gAsMaAwQG9kUrAZO_fRTO9gCwfADngfsbRvIVnYh_7ZVQhn4x_LM4f8di9dlQObg/s200/20190913_161155.jpg" width="200" /></a><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEihvbcimmP2HlF9q4B4ACv5slzkLIjqoqASeId69GtWJq5bmd2YiJbJOM1Y7g2LCraqYfWG6Woz2lDn_EGnbU0F8aP_Ye4pNiOxEP_l03YvrmPRgTRt-Q-TH8BtXf9Ai8O8mILDabmP1t0/s1600/2019-09-13+17.03.56.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="150" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEihvbcimmP2HlF9q4B4ACv5slzkLIjqoqASeId69GtWJq5bmd2YiJbJOM1Y7g2LCraqYfWG6Woz2lDn_EGnbU0F8aP_Ye4pNiOxEP_l03YvrmPRgTRt-Q-TH8BtXf9Ai8O8mILDabmP1t0/s200/2019-09-13+17.03.56.jpg" width="200" /></a></div>
<br />
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<h4>
#おわりに</h4>
モスクワ・ペテルブルグともに、初訪問日が特別な日に当たっていて、モスクワでは「モスクワの日」(День города。なんとテーマが「宇宙(Kosmos)」)、ペテルブルグではアレクサンドル・ネフスキー公の聖遺物移管を紀念する「十字行」(крестный ход)をはじめてみることが出来ました。どうやら2013年にスタートした行事のようですが、これもまた得がたい経験でした。<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2vjPE-foa7X6tm0UntjGNDPIm-GcRqblwkkdwDfrN6h5NHGMVPmHr0RYE47_ZZIksFeAVzemCUfbJKiPDJUD-_aFJ8Y3HLtAB9xLjNyYQVAGSFINCift5M0aqikchqZQI6dFdY46saWU/s1600/2019-09-12+11.30.58.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh2vjPE-foa7X6tm0UntjGNDPIm-GcRqblwkkdwDfrN6h5NHGMVPmHr0RYE47_ZZIksFeAVzemCUfbJKiPDJUD-_aFJ8Y3HLtAB9xLjNyYQVAGSFINCift5M0aqikchqZQI6dFdY46saWU/s320/2019-09-12+11.30.58.jpg" width="320" /></a></div>
<br />
留学のころとちがって、今回は普通に観光客として訪れてみたわけですが、思った以上にクレジット決済も使えるし、ネット事前予約も進んでいる、入出国・滞在に関する雑事もだいぶ簡略化されてきている……といたるところで、良い方向の進歩を感じることができました。街頭からホームレスたちが一掃されていたのは、ちょっとジェントリフィケーションを感じたりもしましたが。あとはビザさえなんとかなれば、ロシアへのハードルは本当に低くなったと感じると思います。<br />
<br />
ツイッターでも書いたのですが、わたしのような外国人が少しでもロシア語を話すと、ロシア人の心の鍵がすっと開く音が聞こえる気がします。その感覚のここちよさが、もしかしたらロシア滞在で感じるここちよさなのかもしれません。必要以上の分け隔てを感じないところに、自由さとこれからのポテンシャルがあるような。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-37088035948965463002019-07-03T05:54:00.002+09:002019-07-03T05:55:51.226+09:00重力/Note公演「Love Junkies」に翻訳で参加重力/Noteの公演「Love Junkies」に工藤 順が翻訳で参加しています。<br />
<br />
原作は、アルフォンソ・リンギス(Alphonso Lingis)の『信頼』(Trust)の中の掌篇「Love Junkies」です。<br />
<br />
仙台・北九州・盛岡をめぐる公演。ぜひお立ち寄りください。<br />
劇場限定パンフレットも販売中です(80部限定版¥500、簡易版¥400)。<br />
<br />
*<br />
パンフレット(限定版)より序(工藤 順)<br />
<br /><blockquote class="tr_bq">
このテクストは、アメリカの旅する哲学者、アルフォンソ・リンギスが書いたテクスト「Love Junkies(ラヴ・ジャンキーズ)」を、重力/Noteの公演のために訳し下ろしたものです。基にしたテクストは、リンギスの“Trust” (U. of Minn. Pr., 2004)に所収の版ですが、Performance Research誌(9(4), 2004)に所収のテクストも参照しています。既訳には『信頼』(岩本正恵訳、青土社、2006)所収のものがあります。 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
テクストを一読したときに感じたのは、異様な“若さ”でした。リンギスは1933年生まれですから、このテクストを執筆したのは彼が73歳(!)のとき、ということになります。「年相応」などという言葉を吹き飛ばしてしまうような、鮮烈なテクスト。翻訳もその若さに追いつくべく、何度も音読しながら、改訂を重ねました。また、公演を前提とした翻訳でしたので、演出家や俳優からフィードバックをもらいながら、「1度で意味が伝わるか」ということを意識して公演まで何度も改訂を重ねたのも、また得がたい経験でした。 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
雑誌に掲載された版は、テクストのなまなましさの点で、単行本版にまさります。今回はたまたま雑誌版から先に翻訳し、のちに単行本版と突きあわせて翻訳を行いました。単行本版のテクストにあわせていく作業のなかで泣く泣く切り捨てた、輝くようなテクストもありました。 </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
「LGBT」や「ホモセクシュアル」という言葉をいちど脇において、ひとがただひたすらに「ひと」でしかないような、無条件で絶対的な愛の経験に身をゆだねてほしいと思います。</blockquote>
<div>
<br />*<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgzLsk7ooriQkgU1uu2OueCnjhIKEZuvujtW57_q27Xji0EwTmY9cVkEyV0F5nST45-Cxa6Q7qr6-I2TxHcKei8yv7EgZrgFmA2EhfN717Tppam2DuB3b3HYNbKAE1cTKRY6Nlmzg3X-lk/s1600/D-D26E6UcAEKxGh.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="226" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgzLsk7ooriQkgU1uu2OueCnjhIKEZuvujtW57_q27Xji0EwTmY9cVkEyV0F5nST45-Cxa6Q7qr6-I2TxHcKei8yv7EgZrgFmA2EhfN717Tppam2DuB3b3HYNbKAE1cTKRY6Nlmzg3X-lk/s320/D-D26E6UcAEKxGh.jpg" width="320" /></a></div>
<br />
<br />
<br />
◆ Information ◆<br />
世界中を旅したり異国に住んで思索することで知られる哲学者アルフォンソ・リンギス<br />
彼が出会ったセクシャルマイノリティの犯罪者カップルを描いたテクスト『LOVE JUNKIES』を演劇化します<br />
<br />
〈愛〉と〈信頼〉<br />
<br />
いかなる苦難の状況においても、人間が求めないではいられない精神の身振り<br />
<br />
その根底に流れる情動を、地球規模で繰り広げられる生命の営みと繋がりを持つものとして考察したテクストをもとに、いまの私たちの生存感覚と向き合う〈場〉をひらく演劇として皆さんにお届けします<br />
<br />
また遠距離間での共同作業の可能性を模索する〈リモート稽古〉や、上演予定各地で稽古やリサーチを重ねて移動性と場所性を活用する〈旅する稽古場〉といった創作プロセスの試みにもご注目ください<br />
<br />
◆<br />
<br />
『LOVE JUNKIES』<br />
<br />
原作:アルフォンソ・リンギス(『信頼』より)<br />
翻訳:工藤 順<br />
<br />
演出・舞台美術:鹿島 将介<br />
<br />
出演:小濱 昭博<br />
<br />
◆<br />
<br />
公演日程<br />
[仙台公演]6月16日(日)〜23日(日)@せんだい演劇工房10-BOX box-1<br />
[北九州公演]7月5日(金)〜7日(日)@枝光本町商店街アイアンシアター<br />
[盛岡公演]7月16日(火)〜17日(水)@いわてアートサポートセンター 風のスタジオ<br />
<br />
詳細は重力/Noteウェブサイト、SNSにて<br />
<a href="http://www.jyuuryoku-note.com/" target="_blank">http://www.jyuuryoku-note.com</a><br />
twitter: <a href="https://twitter.com/Note1069/" target="_blank">@Note1069</a></div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-15909828140142882372019-02-16T16:33:00.003+09:002019-02-16T16:33:31.047+09:00父からの手紙2019年、年始に父から届いた手紙。<br />
--<br />
本年は亥年、猪でありますが、新潟県内では既に阿賀野川を越えたようです。関川村で猪の被害を耳にしました。米沢の白布峠も越えていると米沢の方が言っています。猿は言うに及ばず、熊も寺のすぐ近くに出ています。寺に食べ物がある訳ではありませんが、近くの畑の人は被害にあっています。人間は過疎化を辿り(小学校が春より八幡に一校になります——全校で140人の児童)、動物は北限域を上げていきます。日東道の工事が進み、町内でも数ヶ所で道路工事が始まりました。住人のいない家屋は取り壊しが少しずつ始まっています。かつて小学校の登下校で列を組んでいた様子は無くなり、その部落・町内に小学生が一人でもいればどこの子供だかすぐわかります。村の住人は高齢化で山や畑にでるのがきつくなってきました。春から始まる、山菜 田んぼで見かける人は(委託した)公社の人 鮎で川に入る人は他所の県の人 コドの所有者も少ないし、大毎で除雪に来てた人は、ボランティアの方々でした。<br />
--工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-3557899568028154252019-01-14T15:18:00.002+09:002019-01-14T15:18:52.721+09:00New Found Land:アヴァンギャルドデータベース「Forgotten Heritage」◆Forgotten Heritage<br />
<a href="https://www.forgottenheritage.eu/" target="_blank">https://www.forgottenheritage.eu/</a><br />
<br />
ポーランド、クロアチア、エストニア、ベルギー、フランスの20世紀アヴァンギャルドのアーティストに関するデータベース。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh5rWGMIYMIqwSV6G48qbacYEMx3r4UeuwqrqLYBVxuLgulh_h8Xlso0cHiOp5g8z7Pt3Xmu0oF3mtjdi_NEgRIS2Rc_noWsWOImRhnX2j3jMibGrME69KfCNk3HGmWUfyE6hf5jQY5HyQ/s1600/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2019-01-14+15.17.57.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="805" data-original-width="1600" height="200" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh5rWGMIYMIqwSV6G48qbacYEMx3r4UeuwqrqLYBVxuLgulh_h8Xlso0cHiOp5g8z7Pt3Xmu0oF3mtjdi_NEgRIS2Rc_noWsWOImRhnX2j3jMibGrME69KfCNk3HGmWUfyE6hf5jQY5HyQ/s400/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2019-01-14+15.17.57.png" width="400" /></a></div>
<br />工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-33701021573727337532018-12-20T22:20:00.000+09:002019-01-03T22:27:57.920+09:00「ゆめみるけんり」vol.3を出版しました <div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiZEvc7EToNMJLr9qNrZfwWgg_L4GEXMmbONOw88Wv9eQNyFzN35hecBaPz74prGXRir5rcrPjZQ5i0wRpoKKrCwQtmNL9FLQy80V7EVEUzskZtWUrULQtT4UAXN7KJ0A3UZyoYPz_36R0/s1600/180920yumemirukenri_mihon.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1018" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiZEvc7EToNMJLr9qNrZfwWgg_L4GEXMmbONOw88Wv9eQNyFzN35hecBaPz74prGXRir5rcrPjZQ5i0wRpoKKrCwQtmNL9FLQy80V7EVEUzskZtWUrULQtT4UAXN7KJ0A3UZyoYPz_36R0/s400/180920yumemirukenri_mihon.jpg" width="253" /></a></div>
<br />
<br />「ゆめみるけんり」vol.3を出版しました。今回の特集は「睡眠主義」です。<br /><br />わたしは、特集のなかでロシア・アヴァンギャルドの画家/詩人エレーナ・グローと、アンドレイ・プラトーノフの作品の一部を訳しています。<div>
また、前号から引き続きニコライ・フョードロフのエッセイ「著作者の義務と、博物館=図書館の権利」の後半も掲載しています。さらに今号から、藤田瑞都との共訳で、フェルナンド・ペソア「アナーキスト・バンカー」を連載します。今回は前半を掲載しています。<br /><br />詳細はこちらから。<br /><a href="https://droitdeyumemir.blogspot.com/2018/09/zinevol3.html" target="_blank">https://droitdeyumemir.blogspot.com/2018/09/zinevol3.html</a><br /><br />入手方法はこちらにまとめています。全国書店およびKindleで展開中です。私に直接お問い合わせいただいても大丈夫です。<div>
<a href="https://droitdeyumemir.blogspot.com/p/our-zine.html" target="_blank">https://droitdeyumemir.blogspot.com/p/our-zine.html</a></div>
</div>
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来年もまた1号出しますので、寄稿等興味ある方はいつでもお声がけください。</div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-82310346626739908672018-07-18T21:36:00.000+09:002018-08-14T23:12:46.782+09:00私たちの7月15日のこと私たちが崇敬するアントン・パーヴロヴィチの命日だからという理由で、7月15日という日を選んで、わたしは姓を変えることにしたのだけれど、この7月15日というのが世界史的にも大変特異な日らしいということを知ったのはまた後日の話だった。<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8815%E6%97%A5" target="_blank">Wiki</a>を参照してもらえればわかると思うけれど、例えばこの日にはベンヤミンとデリダとイアン・カーティスと久住小春が生まれている。そして、1904年にはドイツのバーデンヴァイラーでアントン・チェーホフが亡くなった(ちなみにチェーホフの遺体はその後牡蠣輸送用列車に載せられてロシアに戻った)。<br />
<br />
◆<br />
<br />
大学の頃から、セクシュアル・マイノリティの問題やジェンダーの問題について多少でも興味をもって勉強してきたことも少しながら影響して、今回わたしは、自分のほうの姓を変えることにした。私たちがこれを決めるまで、かなり長い間決めかねる時期があり、というのは2人が2人とも姓に対して特段のこだわりを持っておらず、実家に対しても愛着を持っていて、要するにどっちでも良かったのだ。姓は、私たちにとっては本質的な問題ではないし、今さらどちらの家ということもないだろう(墓について言えば、死ぬときは墓よりも灰になりたいと現時点では思っている)。ただ、日本の現行法のもとでは婚姻に際して夫の姓か妻の姓かどちらかを選ぶ、いわばどちらかが姓を捨てることを強いられているので、どちらにするかを決めねばならなかった。あえて言わせてもらえば、「それだけ」のことだった。<br />
<br />
しかし姓を変えることには、婚姻手続き上の簡易さ(婚姻届ではどちらかにチェックを入れるだけなのだ)とは裏腹に非常な面倒がつきもので、例えば銀行口座の名義変更をしなければならなかったり、パスポートも更新が必要だし、免許証やその他の公的証明書も変更が必要になる。慣例的には、そうした困難事を一手に引き受けなければならないのは妻の方になっている。そしてもう一つ言っておかなければならないのは、妻の側が姓を変えることがあまりにも「ふつう」の慣例として受け入れられているから、あえて当事者が言明し、必要な場合には関係者を説得しなければ夫の側が姓を変えることがままならない現状がある。<br />
<br />
わたしが大学で学んで内面化して(少なくとも内面化しようと努めて)いるアティテュードとして、「弱者の側に立つ」ということがある。わたしは常に弱い人、困難を強いられている人の味方でありたいと考えていて、常にそれが可能ではないとしてもその視点だけはずっと忘れずにいたいと思っている。今回、そのアティテュードの(何よりも自分自身に対する)表明という意味で、改姓にあたって国や社会に強いられる困難事を、わたしが引き受けようと思った。そうすることによって、わたしの生き方として、常に困難である方を選ぶこと、潜在的に抑圧されている側に立つこと、「ふつう」とか「常識」という名前で覆い隠して私たちが見ないようにしていることを見ようと努めること、弱さを引き受けることなど……を名前の変更という事態によって、象徴的に引き受けようと思った。<br />
<br />
もう一つ、姓を変えるに当たってポジティヴなモチヴェーションとなったことは、「姓を変える」ということを考えると、あたかも服を着替えるかのように、新しい姓に身を包みかえて第二の人生に踏み出すとでも言ったらいいか、ある種わくわくした気持ちが起こってきたことだ。だからわたしは、名前を変えて「くどう」が「ふじた」になる日を、かなり楽しみに待つことになった。<br />
<br />
◆<br />
<br />
わたしの父は、わたしが小さかったころにはいわゆる「強い父」だった。しかし今になってわたしは、それが実は演技だったのではないか、演技をせざるを得なかったのではないかということを考えている。<br />
<br />
姓を変えることを、わたしはその1ヶ月前にはじめて父親に電話で伝えたのだけれど、もちろんいきなりの話だったので困惑していたようだった。そして父の考えについて手紙を書いて送るので、待ってほしいと伝えられた。わたしはしばらく何を言われるか結構びくびくしながら待っていたのだけれど、2、3日して父から4枚ほどで綴られた手紙が届いた。その手紙がよかった。父はそもそもわたしが子どものころから(今だに)何を考えているのかなかなか表立って言わない人で、それが誤解を生んだり、必要以上にわたしが彼を恐れることがあったけれど、今回の手紙は、父の内側にずっとあったのだろう考え方を多少なりとも打ち明けてくれるようなものだったからだ。<br />
<br />
「(僧侶という)家制度に固執する職業に就いている」者として、と彼は書いていた。父自身、その父親(わたしの祖父)が死んだ時に、その時点で抱いていた夢や将来像を諦め、寺院僧侶として生涯を終えることを引き受けた人である。手紙にはとても複雑な感情があった。諦めることの悔しさや旧来のイエ制度から感じる限界、そして父自身が引き受けた寺や村の終焉。つづめて言ってしまえば、そこには旧習や廃れゆくものを自分の老いて死にゆく一身で引き受けながら、新しいものの到来を無心に寿ぐひとの姿があった。それを「愛」と言ってしまえばあまりに陳腐だ。挫折や諦めを乗り越えるために、強くあろうとした人。それが時には空回りして人や自分を傷つけてしまった不器用な人。そういう人が手紙にいた。<br />
<br />
そしてこの手紙が、つまり父がすぐれていたのは、この婚姻という感情事を、ほとんど個人的な感情うんぬんで判断しようとしていなかったからだ。そこにはむしろ愛情に裏づけられた冷静な現状分析と信頼とがある、とわたしは思った。「私はあなたを支持します」と手紙は締められていた。<br />
<br />
◆<br />
<br />
14日から16日まで、海の日を含んだ三連休であって、私たちはその時期を京都で過ごすことにしていた。14日にはわたしと恋人のそれぞれの両親を新潟と広島から招いて、高瀬川沿いの料理屋で初めて顔あわせの機会を設けたのだけれど、その日はそれでもう疲れてしまって、宿でさっさと休むことにした。ちなみに言えばこの時期の京都は7月にしては異例の暑さで、翌日の昼に温度計を見たら、確かに40度の目盛りを示していたことを覚えている。忘れないうちに、15日のことについて、少し思い出しながら書いておこうと思う。<br />
<br />
私たちが起きたのはもう昼も11時にもなるかという頃で、宿を出たのは12時過ぎだった。宿は五条駅に近い、町家をリノヴェーションしたところだった。日本には戸籍というシステムが未だに滅びずに存在していて、しかし本籍の所在は自由に選択できるということだったから、私たちは〈京都でありロシアである某所〉にそれを置くことにした(わかる人には当然わかってしまう)。その〈某所〉のある区の区役所には、だいたい12時30分くらいに到着して、私たちは婚姻届を出した。休日夜間窓口には、赤いウィンストンを胸ポケットに入れたロマンスグレーのおじさんがいて、私たちが考えていたよりもはるかに親切かつ丁寧に届を確認してくれた。ここで少々時間をとってしまったのは、京都固有の複雑な住所地名のせいである。私たちが調べて記入した本籍の住所は、役所的には正しくなかったらしくて、おじさんは区役所職員必携(なのであろう)小冊子をめくって正しいところを調べてくれた。私たちがおじさんの調べてくれたとおりに届を修正すると、最終的にはおそらく無事に受理された。<br />
<br />
<div>
その後、私たちはとりたてて「入籍日らしいこと」をしなかった。「らしいこと」とは何か、私たちは知らないし、それがなにより私たちらしいと思う。少し移動して美味しいコーヒーを飲み(つつフレンチトーストとチョコレートブラウニーをそれぞれ食し)、共通して読んでいたソル・フアナ『知への賛歌』を読んだ。同じ敷地の中で、家具だとか雑貨をみた。そうしているうちに約束していた時間が来たので、タクシーで〈某所〉に向かった。せっかく戸籍を置くことになったわけだし、見学をさせてもらおうと思って事前に連絡していたのである。ここでもまたおじさんが、天使のような男の子の「ハゲ」だとか「太ってる」という暴言をいなしつつ、私たちにその建物について説明をしてくれた。しばらくそこにいたのち、近くのzine・同人誌を多く扱う書店に行き、京都で出ているロシア関係の雑誌「<a href="http://koctep.jp/" target="_blank">Костёр</a>」(次号で終刊だという)と、老いに関するリトルプレスだという「PERSPECTIVE from an oblique」を買った。店長さんと「ゆめみるけんり」についての話をすると、にこにこしながら聞いてくれる。その後、次の予定まで近くの日本酒バーで『タイタニック』を見ながら涼む。店員の圧がすごかったが、料理がどれも美味しくて、わさびのマスカルポーネ和えとか柴漬けのタルタル和えとか、唐揚げのだし漬けなんかを食べた。レオナルド・ディ=カプリオは死んだ。そこから少し長い距離を移動して、<a href="http://www.gaccoh.jp/" target="_blank">出町柳のGACCOH</a>での鶴見俊輔についての講義(最終回)を聞きにいく。GACCOHは以前から行きたいと思っていたので、行けることになってとても嬉しかった。谷川嘉浩さんのレクチャー。鶴見がいう「文章の書き方」について。体験と原体験。期待の次元と回想の次元。話自体とても興味深く聞けたのだが、何より場の雰囲気がとても居心地よかった。民家を改装した小さなスペースに7、8人の観客が集まり、レクチャラーと同じ専攻の人も多いのだが、それでも閉鎖的な感じはせず、親密なコミュニケーションがあった。この距離感、そして大学(院)生が主に大学(院)生に向けて語る感じが、自分のやりたいことと近く、とても好ましく思えた。話の内容と、場の感じも合わせてよい刺激をたくさん受けて、恋人と興奮してしゃべりながら鴨川を横断して夜の街を南下。途中にあるチープなタイ料理屋でご飯を食べて、地下鉄の駅まであるいて宿に帰る。ちなみに裏番組で祇園祭をやっているようだった。こんな、ある入籍の日だったことだ。<br />
<br />
◆<br />
<br />
ペテルブルグで偶然出会うことになったあの日(自分は覚えていないのだが、その日の待ち合わせでわたしはドゥルーズの『千のプラトー』を読んでいたという。気持ち悪くないですか)から、だいたい5年の時を経て、今年の7月15日に私たちはわたしとわたしであり続けながら、私たちとして少しだけ強くなった。ということの記録。しばらくして私たちは東京に帰って夜ご飯を食べながら、私たちは何も変わらないこと、慣例的なものに抗いつづけていくこと、尖りつづけていくこと、子どものままであることなどを話しながら、笑った。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">(追記)2018.7.25</span><br />
<span style="font-size: x-small;">・婚姻届の「新しい本籍」欄は、捨印を押していても役所で修正できない事項だそうなので、これから出す人は注意が必要ですね。(とはいえ、本人が窓口で修正する方法はあるから、2人分の印鑑を忘れないこと。)そういうことがあるので、できれば本籍地の属する自治体で提出すれば、休日でも窓口のアンチョコで調べて教えてくれる場合があるから、その方が後から楽だと思う。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">・(手続き上知った京都トリビア)京都市に「〜番」は存在しない、すべての住所は「〜番地」である。「丁目」でなく「町目」と表記している場合がある。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">・手続きメモ。(現代社会のスピードを記録しておくために)</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0715日:届提出。(翌日は祝日)</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0719木:戸籍謄本請求→翌日発送。(結構スピード感がある。)</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0723月:住民票「新氏・本籍」反映。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0724火:会社書類①婚姻届、②改姓届。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0725水:免許更新。(一瞬で終わる)</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0726木:改姓について会社の決裁了。会社書類③社員証更新。A銀行</span><span style="font-size: x-small;">口座名義変更(ネット銀行なので郵便で。完了まで相当かかる)。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0731火:会社内各システム名前変更。郵便局・クレカ名義変更(30分くらいかかる)。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0802木:ネット、携帯など名義変更(郵便でのやりとりもあれば、ネットで写真を送るだけのところもあり)。</span><br />
<span style="font-size: x-small;">0814火:クレカ・web上の名義変更完(カード着は後日)。</span></div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-85395024023657665972018-03-25T09:40:00.001+09:002018-03-25T09:40:39.828+09:00New Found Land:ニコラ・ブリオー来日関連◆ニコラ・ブリオー来日(2018年)関連<br />
・「人新世におけるアート」は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」──特別講演会「グローバル時代の芸術文化概論:21世紀の関係性のランドスケープ:人間的そして非人間的領域の狭間におけるアート」を聴いて(沢山遼)<br />
<a href="http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-ryo-sawayama-on-bourriaud/" target="_blank">http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-ryo-sawayama-on-bourriaud/</a><br />
<br />
・ニコラ・ブリオー講義アーカイヴ(川出絵里)<br />
<a href="http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-nicolas-bourriaud/" target="_blank">http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-nicolas-bourriaud/</a><br />
<br />
・BETWEEN PRACTICE AND THEORY(星野太)<br />
<a href="http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv_e/X8VQRtDBPOxyjMJihmAn/" target="_blank">http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv_e/X8VQRtDBPOxyjMJihmAn/</a>工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-47504157070504635282018-03-23T09:29:00.000+09:002018-03-25T09:29:46.844+09:00New Found Land:中世思想原典集成図解◆中世思想原典集成図解(小林博和さん)<br />
<a href="https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/kobayashikorio/christ/christ.html" target="_blank">https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/kobayashikorio/christ/christ.html</a><br />
やばさを感じる。<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgOSjq9NDMtZevurhiHxp_wGzgAe5Td9UOJ1suDbTeae81PCG2cYndUjfh-QO0QF0PsZtmIifSEoMOHhKivVhQtHtzbX4Qm6rCVgmWmuMybnv7zN86EUM0fF0uRBjEWwaFJWA8k5K3luSo/s1600/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.28.19.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="250" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgOSjq9NDMtZevurhiHxp_wGzgAe5Td9UOJ1suDbTeae81PCG2cYndUjfh-QO0QF0PsZtmIifSEoMOHhKivVhQtHtzbX4Qm6rCVgmWmuMybnv7zN86EUM0fF0uRBjEWwaFJWA8k5K3luSo/s400/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.28.19.jpg" width="400" /></a></div>
<br />工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-39505696709201018692018-03-22T09:23:00.000+09:002018-03-25T09:26:06.197+09:00New Found Land:レートフ/クリョーヒン関連ブログ◆東欧ロシアジャズの部屋<br />
<a href="https://jazzbrat.exblog.jp/" target="_blank">https://jazzbrat.exblog.jp/</a><br />
<br />
・セルゲイ・レートフ「都市、辺境と移住」(<a href="https://jazzbrat.exblog.jp/14036451/" target="_blank">https://jazzbrat.exblog.jp/14036451/</a>)<br />
・レートフ「ソヴィエト・ロシアにおける新即興音楽小史:1960年代〜1990年代初期」(<a href="https://jazzbrat.exblog.jp/13683188/" target="_blank">https://jazzbrat.exblog.jp/13683188/</a>)<br />
・レートフ「セルゲイ・クリョーヒンについての覚え書き」(<a href="https://jazzbrat.exblog.jp/14056879/" target="_blank">https://jazzbrat.exblog.jp/14056879/</a>)<br />
<br />
<br />
*クリョーヒンについては、雑誌媒体にいくつかインタビューがある。<br />
・『ジャズ批評』1996年7月:インタビュー「ポップ・メハニカの方法」<br />
・『Asahi Journal』1989年4月28日:インタビュー工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-56199942991860213492018-03-21T09:11:00.000+09:002018-03-25T09:14:20.542+09:00New Found Land:Soviet Logos◆Soviet Logos(Instagram)<br />
<a href="https://www.instagram.com/soviet_logos/" target="_blank">https://www.instagram.com/soviet_logos/</a><br />
<br />
ソ連時代の商標ロゴコレクション。かっこいい。<br />
ポスターも販売している。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj_1prMADXWhbq0G-RoRtaQE9apdfDgbwCg3HlvJOnC_zJm_dCkE9K_6TLVE0D1SMVbTG0dmgSTFhpChf7yy-Q2npcfv1fE_kkAb4KC4FSZ4mYFLmW54SQt1Sd4GOw1uI-3UhwwQRpryAs/s1600/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.12.27.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="213" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj_1prMADXWhbq0G-RoRtaQE9apdfDgbwCg3HlvJOnC_zJm_dCkE9K_6TLVE0D1SMVbTG0dmgSTFhpChf7yy-Q2npcfv1fE_kkAb4KC4FSZ4mYFLmW54SQt1Sd4GOw1uI-3UhwwQRpryAs/s400/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.12.27.jpg" width="400" /></a></div>
<br />工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-35979119011362161632018-03-20T09:09:00.000+09:002018-03-25T09:14:31.410+09:00New Found Land:「ロシアの通貨」(齋田章さん)New Found Landというラベル(カテゴリ)を新しく設けました。インターネットの海から発見したサイトなどを投げていきます。<br />
<br />
◆齋田章さんのサイト「ロシアの通貨」<br />
<a href="http://www.a-saida.jp/" target="_blank">http://www.a-saida.jp/</a><br />
<br />
・帝政ロシアの通貨事情<br />
・ロシア革命の貨幣史 など。<br />
<br />
とても面白く、ためになります。<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhacMeNED5yxF7RBvG4-DmzMSBJl120VXl6osM9lphu2kqjvWbeD_3ZzW88sbRRPHe-OlprNzzJB6NdVqu1wKXgmy__4bpKP5CBLFApWxaq-kllnBF8Tlud_IY16L-7z41185EOk3MJLWs/s1600/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.09.53.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="307" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhacMeNED5yxF7RBvG4-DmzMSBJl120VXl6osM9lphu2kqjvWbeD_3ZzW88sbRRPHe-OlprNzzJB6NdVqu1wKXgmy__4bpKP5CBLFApWxaq-kllnBF8Tlud_IY16L-7z41185EOk3MJLWs/s400/%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588+2018-03-25+9.09.53.jpg" width="400" /></a></div>
<br />
<br />工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-86970073498007798432018-01-23T21:48:00.000+09:002018-01-23T21:48:05.869+09:00「ゆめみるけんり」vol.2を出版しました<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9Ln-wP-bfhYK64rwztoxV3KDxr4kzZ2OEuiYi-2fJtR2O4EQSR6AWg1P1kqT7AOB72UvI4u3dy4qkVEB46468Y10i_KM9W3pfpSmstHztueB7TOnvIySPueIDlhy2BSVK-4Uuf3fYEBA/s1600/171002yumemirukenri_o.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg9Ln-wP-bfhYK64rwztoxV3KDxr4kzZ2OEuiYi-2fJtR2O4EQSR6AWg1P1kqT7AOB72UvI4u3dy4qkVEB46468Y10i_KM9W3pfpSmstHztueB7TOnvIySPueIDlhy2BSVK-4Uuf3fYEBA/s400/171002yumemirukenri_o.jpg" width="255" /></a></div>
<br />
「ゆめみるけんり」vol.2を出版しました。今回の特集は「わたしと、はたらくこと」。<br />
わたしは、パーヴェル・フロレンスキーの手紙と、Kindle版限定でセルゲイ・エセーニンの詩を訳しています。また、前号から引き続きニコライ・フョードロフのエッセイも掲載しました。「著作者の義務と、博物館=図書館の権利」というタイトルで、博物館・図書館論の前半です。<br />
<br />
その他今号のコンテンツはこちらをご覧ください。<br />
<a href="https://droitdeyumemir.blogspot.jp/2017/09/new-issue-coming.html" target="_blank">https://droitdeyumemir.blogspot.jp/2017/09/new-issue-coming.html</a><br />
<br />
書籍版は書店で細々と展開を開始したところですが、もし欲しい方がいらっしゃいましたらわたしまで直接お問い合わせください。<br />
Kindle版はこちらです→<a href="http://amzn.asia/eJpuau0" target="_blank">http://amzn.asia/eJpuau0</a><br />
<br />
詳細は、「ゆめみるけんり」ブログまで。<a href="https://droitdeyumemir.blogspot.jp/" target="_blank">https://droitdeyumemir.blogspot.jp/</a>工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-37088730280573591422017-05-29T09:56:00.000+09:002017-05-29T09:56:06.326+09:00モスクワ現代建築・アート事情(リンク集)『10+1』web版の記事など。<br />
<br />
・世界建築レポート7「The Old and New: Mosaic City, Moscow──モザイクとして彩られた都市モスクワ」(鈴木祐也氏;2008年1月)<br />
<a href="http://10plus1.jp/monthly/2008/01/31152124.php" target="_blank">http://10plus1.jp/monthly/2008/01/31152124.php</a><br />
→2000年代後半、モスクワ建築事情。<br />
<br />
・「Photo Archives 94 モスクワ」(Janko Radojević)<br />
<a href="http://10plus1.jp/photo-archives/94/" target="_blank">http://10plus1.jp/photo-archives/94/</a><br />
→構成主義の遺産、など。<br />
<br />
・鈴木祐也氏@Tokyo Art Beat<br />
「モスクワのアートシーンについて」(2007年12月)<a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/vik-munis.html" target="_blank">http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/vik-munis.html</a><br />
「モスクワのアートを支える「地下」という作品・展示形態」(2008年3月)<a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/03/moscow2.html" target="_blank">http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/03/moscow2.html</a><br />
「『かくして社会主義は勝利したのです!』」(2008年4月)<a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/04/moscow3.html" target="_blank">http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/04/moscow3.html</a><br />
「『アーカイヴ写真』の可能性について」(2008年5月)<a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/05/archive-photo.html" target="_blank">http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/05/archive-photo.html</a><br />
「『“ 国際 ”という名において 』 広まるモスクワコンテンポラリー・アート」(2008年6月)<a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/06/moscowcomtemporary.html" target="_blank">http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/06/moscowcomtemporary.html</a>工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-22433750678177427502017-04-16T22:24:00.000+09:002017-04-19T21:56:46.924+09:00文字26私たちは、人間であることにひどく疲れてしまったのではないだろうか、ということを最近特に思う。知とは、個的な経験を抽象化・普遍化する挙措だと思うのだけれど、これはとても労力がいる。とてもめんどくさいのだ。<br />
<br />
民衆からしてみれば、目の前にある聖像を神に見立ててひたむきに祈ってみせることは簡単で、それ以上のことは必要ないように思う。あとこれは別の話だけれど、星を見上げれば普通は天のほうが動いているように見える。しかし知が拡散する、知が人類というレベルで共有されるためには、「三位一体」とか「地動説」とかいうわけのわからない複雑怪奇な論説が必要とされたのだった。知は論争だったから、相手を言い負かすために論理を組み立てておく必要があった。<br />
<br />
だから知は、異質なものとの遭遇の準備でもあった。もちろん、その結果として歴史上ではしばしば武力をもって衝突が起きてしまったわけだけれど、少なくとも異質なものと交渉せずにいることは不可能に近いことだったし、そのための準備は武力とともに知がおこなっていた。<br />
<br />
知に飽きてしまった。知の要求するレベルに息切れを起こしてしまった。そんなところではないだろうか。知を維持していく気力も、気概もなければ、外に出ていく勇気もない。あくまでこのまま個であって、個のうちで理解されていればいい。その結末は、歴史が示す通り、共同体の死であり、それが全人類規模で起こるのだとすれば、ひとの死に他ならない。<br />
<br />
隕石でも、火山の大噴火でもなく、大地震でもなく、まさかこんなに静かに、人間が人間でなくなることで、ひとはなくなってゆく。だって学問を失った人間が、いったい何ものでありえるだろう。<br />
人間であることを要求することがこんなに困難になってしまったときに、いったいどうやって人間であり続けていけばよいのだろう。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-10131893222485512542017-02-26T12:40:00.000+09:002017-02-26T12:40:12.393+09:00Zineを出版しました<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxYZosq4J6e7OKhPw2ah07Rkm4cb54j3u9E9b41evEbWinypYpaHHwgjZsKO0vfaSkGgqgr-HLbOuZJYOt4nHszcCilZVQwrAu2XGnqg-5gXRYUBSTgzOkW_-cZw4DdYjQLGBal-UL6Yk/s1600/S__39944195.jpg" imageanchor="1"><img border="0" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjxYZosq4J6e7OKhPw2ah07Rkm4cb54j3u9E9b41evEbWinypYpaHHwgjZsKO0vfaSkGgqgr-HLbOuZJYOt4nHszcCilZVQwrAu2XGnqg-5gXRYUBSTgzOkW_-cZw4DdYjQLGBal-UL6Yk/s400/S__39944195.jpg" width="250" /></a></div>
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このたび、コレクティヴ「ゆめみるけんり」の一員としてzineを出版しました。私は、ロシアの思想家ニコライ・フョードロフのエッセイ(附・解説)と、アレクサンドル・ブロークの詩を訳しています。<br />
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紙版も出版準備中です。詳細については、「ゆめみるけんり」ブログ☞<a href="https://droitdeyumemir.blogspot.jp/" target="_blank">https://droitdeyumemir.blogspot.jp</a>をご覧ください。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-83363213494598441652016-03-04T23:27:00.001+09:002016-03-04T23:41:44.831+09:00あらゆるテクストは読まれないことについて、誤配、その幸福と潜在的可能性「多文化の海をおよぐ」のディスカッションで、私はバイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をもとに、「我々は本を読めていないという可能性をいつも念頭におくべきだ」というテーゼを発することに、成り行き上なったのですが、これに対し来場されたNさんから質問があったように、テーゼ自体誤解を招きやすい、誤配されやすい言い方でなされていたことについて、内心ほくそ笑みながらも、それでもことを明らかにしておく必要はあると思った。だからこうして書くことにするのですが、それではことばは読まれることはないということをことばによって一体どう言い表すことができるというのか。一つの逃げ道として、いくぶん楽観的に「あらゆるテクストは明日読まれる」という言い方をしたら、より、なんというか、ポジティヴな誤配を招くことになるのではないかと思う。あらゆるテクストは、明日読まれる。あるいは読まれない。われわれは読書をする。「読んでいる」「読み終わった」と、軽い仕草で言い立てる。どう、それが可能だというのか。私にはあらゆるテクストの、あらゆる細部を記憶することはできない。常にテクストは、いまここにしかないものであって、そのいまここをわれわれが逃すや否やそれは記憶にかすりもしないばかりか、引っかかりなどなおさらせぬまま私の視覚を通過するだけで、テクストは常に読まれないことになる。それは読まれたが、読まれることなどなかったかのようだ。あたかも、私は読んでいる。「読んでいる」という時、私にとってそれは比喩の上での出来事に過ぎない。<br />
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<br /></div>
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「世界文学」が俎上にある時、問いは例えば「翻訳文学」をめぐる問いかけと同義になるのかもしれず、2月27日のパネルディスカッションはまさにそれについて、つまり翻訳という主題にわれわれは立ち入ったのだった。それはあらゆる誤読と誤配、間違い、読まれなさの巣であって、つまり私が読んでいるこの「翻訳されたところのもの」は一体何者なのか。A語からB語に翻訳される際に100%の転移など不可能であるという事実はあえていま言うに及ばないが、仮に例えば短い詩か何かがあったとしよう。それはA語で(a,b,c)という三つの単語からなる。奇妙な偶然で、B語には、それら三つの単語に対応する単語はそれぞれあり、しかもそれはA語由来でB語に取り込まれた単語だ。だからA(a,b,c)→B(a1,b1,c1)という操作は、一見妥当に、外見上は、思われる。しかし語学学習が永遠の辞書引きと同義であるように、ある言語を学習するという経験は、一つ一つの単語に関してその語の「意味圏」とでも言えるようなゾーンを確認し、実践し、策定していく作業に他ならない。自分自身の言語習得の過程から、式A(a,b,c)→B(a1,b1,c1)において両項をつなげる記号が「→」であり「=」でないということは深く頷けることだと思う。A語における単語「a」(例えば英語のmeeting)の意味範疇が、B語における単語「a1」(例えばロシア語のмитинг=míting)のそれとかけ離れている、とは言わぬまでも大小なりともズレてしまっている事態は、ままある。翻訳者は常に誤読される。文章は、言葉を超えて届きはしない。ここにおいて翻訳の良し悪しとか、よく言われる「美女と醜女」問題などほんの技術上の問題に過ぎない。そもそも読まれはしないのだから。<br />
<br />
しかしその事情とて、私が単に日本語で日本語を解する人向けに、ひとまずは宛てて書いているあらゆる文章でさえ変わらず、とすればあらゆるテクストは常に誤解され、誤配されているということは可能だ。私の文章としてのテクストは、私の思考としてのテクストを100%再現できるわけでもないし、そもそも思考そのものの茫漠とした掴みどころのなさについて、しばしば言語化すること自体の無謀さが言われる(「語りえぬことについては沈黙しなければならない」)。<br />
<br />
だからといって、絶望するにはおよばない。誤読は、常に新しい可能性の招来である。ならば、「不読」=読まないこと、テクストの読まれなさこそは、「可能性」とか「選択」を常に超え出るものであり得る。バイヤールは大学での授業の例を挙げる。そこではしばしば課題図書を読んでいない学生が、より大胆に本質的な問いかけを教師に投げかけることがあるという。そうした言い方はいささかオプティミスティックに過ぎる感はあるにしても、読まれないことの可能性の一つを示す例にはなる。バイヤールが提示する〈内なる書物〉という考え方は、人は誰でも自分の慣習・文化の伝統・歴史の継承などから編纂されたある種の〈書物〉を内に秘めている(仮に〈書物〉の形をしていると想定したとして)という事態を指し示す。人が本を読む(と思い込む)とき、それはテクストと〈内なる書物〉との相互干渉の中で起こる作業なのであり、新しいテクストは〈内なる書物〉との比較の中で読まれる。あるいは、比較の中でしか読まれない。〈内なる書物〉のコンテンツは、ある意味非常に根源的な「生・死」や「愛」、「家族」、「土地」などのテマティカを有していて、それとの比較で読まれる(あるいは読まれない)とき、未知のテクストに関わる問いは必然的に根源的で本質的なものとなる(はずだ)、とバイヤールは言う。テクストをめぐる問いは、私によっていまここで初めて出会われたテクストから発するものではなく、私のうちから、つまりテクストにとって未知のところから投げかけられるものになる。とするならば、いま出会われたテクストは、完全に未知の、〈外の〉経験と対峙することになる。それはテクストから発しはしない経験である以上、すでにそのテクストの「可能性」と「選択」を完全に超え出ている。読まないことは、テクストが拓く可能性やテクストが提示する選択肢の延長線上にあるものではない、2次元を生きる蟻にとって3次元からやってくる人間の足のように、それは予告なしにやってくる。(そして読まれない本について語ることは、つまりあらゆる読書についての会話は、「本」についての会話ではなく、本をめぐる自分自身のことだとか他の人のことになる。それは自然で望ましいことだ。バイヤールは言う:「大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである」そして読まないことは、読むことの受動性に対して能動性を得て、バイヤールによって「創造的行為」とまで称される。)<br />
<br />
だから、あらゆるテクストは明日読まれる。少なくとも明日読まれることをテクストは願っている。だがその願いは叶えられることはない。テクストは常に宛先違いで届き(誤配)、遅れて届き(遅配)、そしてついに読まれることはない(不着)。けれども何度でも繰り返すが、それは絶望すべき事態ではない。私たちはいかなる権利を持って、例えば「К***」に宛てられたプーシキンの詩を読むのだろうか。私にとって詩は常に反省的に読まれる。それは読んでいるいまここで効力を持つことばであるというよりは、いつでも遅れて思いがけない時にやってくる。そして私は本当にテクストを読んだことはない。これからもないだろう。だが、これは絶望すべき事態などでは決してない。プーシキンの詩が、宛先通りに「К***」嬢に届いてしまうこと。「読まれること」とは、例えて言うならばそういう事態だ。なんと直線的。なんという単調さだろうか。そこにはそれ以上の事態の進展など何一つ見込むべくもない。作家が発したことばが、遅配され、誤配され、宛先に届かず、思いがけず私に届いてしまう。私はある種の厚顔無恥さでもってそのテクストを読むだろう(あるいは読み過ごし、誤読するだろう)。その宛先も所属も持たない宿無しのことばが、これまた思いがけず私を心底から撃ち抜いてしまうこと。そこに文学がある。<br />
<br />
あらゆる作家は、誰かに宛てて書きながら、あるいは誰にも宛てずに書きながら、ある者は意識的に、ある者は無意識に(あるいはそう装って)、常に誤配と誤読を期待している。カフカがブロートに遺稿(となるべきもの)を託す時に、カフカの期待に反して、(あるいは彼の無意識に忠実なことに、)カフカの原稿は燃えなかった。プラハの煙突から出た想像上の煙は、思いがけずも東京の私たちに届いてしまったのだった。その過ちはあらゆるテクストにとって本質的なことであり、幸福な過ちでさえなかっただろうか。</div>
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<br /></div>
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<span style="font-size: x-small;">2016年2月27日「多文化の海をおよぐ」、パネルディスカッションの補足として</span></div>
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工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-62069392266266590342015-12-31T19:05:00.000+09:002015-12-31T19:05:06.226+09:00『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半(2)の後半です。<br />
<h4>
ハーモニーと美しさ</h4>
続いて3)<b>目的</b>について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。<br />
前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「<b>自由な遊び</b>」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。<br />
次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」という考えとも関係ないし、条件もないし「美の理想」なんていうものもないんだ、ということです。<br />
<h4>
感動は邪魔なだけ</h4>
「関心」については最前から言われていて分かりますが、「感動」がない、というところには驚きます。我々は「美しい」と言えば、ゾクゾクするような感動をもたらしてくれるものだと思っているからです。カントは言います。<br />
<blockquote class="tr_bq">
趣味が、適意のために<b>感覚的刺戟</b>や<b>感動</b>の混入を必要としたら、(略)かかる趣味はまだ粗野であり、十分な洗練を経ていないわけである。 <span style="font-size: x-small;">(上、106頁)</span></blockquote>
「美しさ」に何を求めてるんだ、カント、お前〜〜という感じですが、あくまでカントはストイックに 純粋な美しさの感覚を追求していきます。カントによれば、まず「あ、美しいな〜」という感じがあり、そのおまけとして感動が付いてくるわけで、感動するから美しい、とは言えないということだそうです。<br />
カントは親切なので、続く第十四項は「実例による説明」に充てられています。それによれば美しさというものは、音楽であれば→純粋な音のレベルで、絵画や建築など造形芸術においては→線描的輪郭(デッサン?)のレベルで判断されるものでなければならず、それ以上のディテールは単におまけ=「装飾」であって、もしその装飾が美しさにとって余計なものであれば「外飾」と呼ばれてしまうのです。つまり、カントはとことんまで「形式」で考えるのです。なんというフォルマリストか。20世紀を待たずともカントがすでにこんなにラディカルなフォルマリストであったのです。(ちなみにカントは同じところで芸術の形式を「形態」的なものと「遊び」的なものに分類しています。「形態」の芸術としては先ほど挙げたような絵画や建築などの造形芸術があるでしょう。「遊び」の芸術の中でもさらに分類があり、「形態の遊び(空間的)」と「感覚の遊び(時間的)」というものがあるとされ、前者は例えばダンス、後者は例えば音楽が想定されます。前者の「美」は線描的輪郭(コレオグラフィのようなものでしょうか)に、後者の「美」は「作曲」に宿るとされています。美は形式だ、輪郭だとはこういうことです。)<br />
また同じところで、「感動」の簡潔な説明がなされています。<br />
<blockquote class="tr_bq">
感動は、快適が瞬間的に阻止されると、これに続いて生の力がいっそう強烈に溢出するために生じるような感覚である。 <span style="font-size: x-small;">(上、111頁)</span></blockquote>
そしてこの「感動」は、のちに述べる「崇高」には関係があるが「美」とは関係ないと言います。 この「快適が瞬間的に阻止」というところがいやらしいな〜と思います。<br />
<h4>
ニュージーランド人は人間じゃないから</h4>
十五節は、「完全であること」が美しさなのか?という問いからスタートします。今までの議論から考えてみると、意外とすんなり理解できると思います。「完全であること」を考えるには、まず先立って「本来どんなもの(用途)のものなのか? その到着地点=目的はどこか?」という考えからスタートせねばならず、そうである限りは「目的」の議論と同じです(この辺アリストテレスの「徳(アレテー、卓越性)」の議論を思い起こしたりします、「馬の徳(他のものより一番すぐれているところ)は走ることである」みたいなね)。ここまで見てくれば簡単、カントによればそんな「完全であること」は「美しさ」とは関係ないんだ、ということになります。「美しさ」とは「心的能力の遊びにおける調和の<b>感情</b>(内感の)」<span style="font-size: x-small;">(上、115頁)</span>であって、到達すべき目標が設定されるような性質のものではない(カント語では「概念」を持たない)のだ、と。美しさはコンセプトではなくエモーションに根拠を持っている。次の節も内容としてはだいたい同じことを言っています。「美しさ」には「自由な美しさ」と「付属的な美しさ」がある。前者には「目的」の考え方がなく、後者にはある。何か達成すべき目的がまずあり、それを満たして初めて美しいならば、その時の「美しさ」は付属的なもの=おまけです。そうではなく(目的を考慮せず)、認識能力において構想力を最大限に遊ばせるところにあるのが純粋な「美しさ」であって、だから「美しさ」には目的があって云々の条件はついてはいけないという話です。<br />
それはいいとして、一箇所ん?と思わせるところがありました。引用します。<br />
<blockquote class="tr_bq">
しかし人間の美(この種の美には、男女それぞれの美や小児の美が含まれる)、馬の美、建築物(教会、宮殿、兵器廠或は園亭)の美などは、いずれも目的の概念を前提している <span style="font-size: x-small;">(上、117頁)</span></blockquote>
だから人間の美っていうのは付属的な美なのだという主張がされます。この辺にも先述のアリストテレスの 議論が反映されているように思いますが、建築物の美ならまあわかる(例も、ある特定の目的がある建築物の列挙になっています)、百歩譲って馬の美もわかる(早い、つまり馬の役割を果たしている=美しい)。ところで人間の美について我々は目的を意識しているだろうか? すぐ後でカント自身が実例として、「教会だからこそ禁欲的なんであって、教会でなかったら自分たちの心地いいように飾りをどんどん足していい」と述べていて、同じテンションで人間の美に関して、「軍人でなかったらもっと<b>人好きのする柔和な顔立ち</b>(原文ママ)を持っていていい」と言います。この価値判断の元では、軍人→(だから)→強面、男→(だから)→いかつい目鼻、逆にニュージーランド人→(ならば人間じゃないので)→身体を刺青で飾り立てて良いし、女子→(ならば男のような役割を持たぬので)→もっと優雅な目鼻や柔和な顔を持って良いとカントは言うのです。この辺あからさまに差別、ひっでえなあという感じですが、これらはすべてカントのあげた実例です。カント的には、人間の美しさというものは、各人が務める役割に応じて基準があり、それの基準の範囲内で美しいだとか美しくないだとか言われる、らしい。<br />
<h4>
平均的な男子の、平均的な鼻</h4>
さてこの節の最後、「美の理想なんてない」のところです。ここもロジックとしては、「目的」、「概念」、「完全性」と同じで、理想を持つことは、目的を持つことになって、目的を持つようなものは純粋な美しさとは呼べないからということになります。理念と理想という言葉がありますが、理念はより抽象的な概念で、理想というのはその理念を具体化したような個別の存在だとカントは定義しています(上、123頁)。カントによれば理念にも二つあって、「標準的理念」と「理性理念」がある。要するに経験的なものかそうでないかという区分なんですが、後者の「理性理念」に関しては人間の姿かたちを例にとって説明されています。「理性理念」が示す人間性の目的というやつを具現化したのが人間の形態であるという感じで、いささか逆説的に求められるものです(神の模倣としての人間というキリスト教の視座をここで思い出したりします)。さらに言うならこの「理性理念」とは何よりも「道徳」のことであるようで、それは「正しいか正しくないか」なので感覚的な刺戟を引き起こすことがないが、大きな関心を引き起こしてしまう、だから純粋な美しさではないとされます。一方「標準的理念」は、つまるところ「平均」であるという話になります。ここでカントが出してくる実例は、「美しい男子の標準的理念」という話で、ちょっとBLくさくなります。言葉遣いが面白い。<br />
<blockquote class="tr_bq">
平均的男子に対して平均的な頭部を求め、更にまたこの頭部に対して平均的な鼻その他を求め <span style="font-size: x-small;">(上、126頁)</span></blockquote>
「平均的男子」とは。<br />
ただこの人間の平均値というのは純粋に経験的なものかというとそうではなく、今までに何百人と見てきた男子をざっとアーカイブしてみて、直感的に、そこからのズレを認識するという性質のものであるようです。で、この「標準的理念」に従って私たちが美しさを感じようとも、それは単に「正確」であるからにすぎない、だから純粋な美しさとは言えない、というのがカントの言いたいことです。<br />
結局この3)<b>目的</b>の節では、美しさ、美しいと感じる判断は、「<b>自由な遊び</b>」によって「ハーモニー」を感じ取ろうとする点で、主観的に・形式的に目的と言えそうな何かを持っている。ただこれは目的を達成しているから美しいということではない。ということが言われます。<br />
<h4>
「わかるわ〜」</h4>
一番長いところを抜けました。それでは4)<b>適意の様態</b>について。美しさはどのように感じられるのか? それは必然的なものなのかどうか? というところです。カントの答えは、「美しさは必然的なものである」です。しかし留保つきです。<br />
「美しさ」の必然さは、「正しさ」の必然さに比べたら弱いもので(「正しい」ことに有無などないはず(少なくともカントによれば)で、「美しさ」はぼくの感じかたと君の感じかたに違いは当然ある)、条件付きの必然さに過ぎない。我々が「美しい」と感じるには、それが普遍的に皆から賛同してもらえるということを期待している必要がありました。<br />
「美しさ」は概念のものじゃない、感情=エモーションのものだ、という議論がありました(本記事、「ニュージーランド人」のあたり参照)。たかが感情の生み出した感覚について、どうして私たちは自信を持って他の人にも賛同を要求するようなことができるのでしょうか? カントによるとその根拠、条件は、想定されるべき「<b>共通感</b>」なる感覚です。つまり、「あ、わかるわ〜〜」という共感です。だから西野カナに対して「わかるわ〜〜」というのは、とても正しくて、それは美しさへの第一歩なのだ。<br />
<blockquote class="tr_bq">
我々がこれらの判断者の判断をすべてこの原理(主観的=普遍的原理)のもとに正しく包摂しているという確信をもつ限り、客観的原理と同じく普遍的同意を要求して差支えないわけである。 <span style="font-size: x-small;">(上、136頁)</span></blockquote>
美しさは感情のもので、その拠って立つところは「共通感」という感覚です。 私から見て、この「あ、美しいな」という判断が「共通感」に照らし合わせてみて他の全員に一致することが期待出来るならば、それは「美しい」と呼んでいいことになります。つまり可能性の問題になります。<br />
この結論はどうなんでしょうか、我々はどこか、哲学者らしくない、というか、全部エモーションの問題になっちゃうんだ??!! というところが腑に落ちない(けれども確かにそう言うしかないような気もする)のですが、カントも自分でこの辺で諦めています。<br />
<blockquote class="tr_bq">
我々はこれらの問題を、ここではまだ究明する積りはないし、また究明できるものでもない。 <span style="font-size: x-small;">(上、136頁)</span></blockquote>
逆に潔くていいと思います。これから究明されるんでしょうか?<br />
<h4>
フリーダム=スープリームでパーフェクト</h4>
以上で第一部第一篇第一章というところが終わりました。ところが実は「総注」という節がまだ残っていて、これが結構面白い。いきなり文章がロマンティックになります。ちょっと大事なことを抜き書きします。<br />
・あるものを認識する(というかその前段で直感する=パッと見る)際、構想力に与えられるのは、その「あるもの」の形式に過ぎないけれど、多様なものがわーっと集まっているような形式で与えられる。それを受け取ると構想力は自由に、そして産出的(productive)に(再生的(re-productive)にではなく)はたらいて、調和を図ろうとする。<br />
・美しいかどうかの判断は、「目的を持たない合目的性」に従ってはたらくようだ。<br />
・だから有用だとか目的だとか言ったことは純粋な美しさの判断には余計なものだ。美しいかどうかの判断は、純粋な「観照」(ぱっと見)と結びつく。<br />
・美しいかどうかの判断においては、悟性が構想力に仕えている。<br />
・規則正しさも確かに美しい、だが理が勝ちすぎていて、自由じゃないし、目的を持つっぽい。下手をすると強制を意味してしまう。本来趣味に反してるんじゃない?? だから<br />
<blockquote class="tr_bq">
規則の課する一切の強制から離脱した場合にこそ、趣味は構想力の自由な構想に関して、最高の完全さを発揮し得るのである。 <span style="font-size: x-small;">(上、141頁)</span></blockquote>
・ 次の文章が非常に「美しい」(この場合の「美しい」はカントの用法を踏まえていますか?????)のでそのまま引用します。<br />
<blockquote class="tr_bq">
心意識は、眼に触れるところの多様なものによって絶えず喚びさまされつつ創造の所産をもてあそんでみずから楽しむのである、例えば壁付暖炉のなかでちらちら燃える炎の形や、せせらぐ小川の流れてやまぬ水の姿を眺める場合が即ちこれである。炎にせよ小川にせよ、これらの形態そのものはいずれも美であるというわけではないが、しかし自由な遊びを営んでいるので、構想力にとってはやはり一種の魅力になるのである。 <span style="font-size: x-small;">(上、143頁)</span></blockquote>
こんなふうにこの章は終わりを迎えます。常に新しい感覚をもたらしてくれるもの、不定なもの、揺れ動くもの、遊ぶもの、自由なもの。そうしたものが純粋に趣味に適った「美しさ」を感じさせてくれるのだ、とカントは言います。<br />
こんなガチガチでストイックな論を運んでいきながら、最後に至るや何かポストモダンの気配まで漂わせてしまっています(というより、ポストモダンこそカントへの立ち戻りだったのでしょうか? 知りませんが)。カント、ただものではないな、とやはり思います。<br />
それはそうと、もはや我々は「美しい」という言葉をうっかりと使えなくなってしまった。口に出すたびにイマヌエルが頭の中で「え、お前の『美しい』、その程度??(笑) それは純粋に『美しい』のかな??(笑)」とか言ってくる。うるせえ!<br />
<br />
さて、次回、読めるのか?(疲れた・・・) 第二章の「崇高」のところに入っていきたいのですが・・・<br />
大晦日になってしまいました、良いお年を!工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-43563758723055268922015-12-31T00:06:00.001+09:002015-12-31T18:13:46.863+09:00『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半『判断力批判』を読む会、2回目です。<br />
前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。<br />
それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。<br />
<br />
ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。<br />
<br />
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* * *</div>
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<br /></div>
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〜12/23</div>
<div style="text-align: left;">
『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁)</div>
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<br /></div>
<h4>
まず目次を読む</h4>
<div style="text-align: left;">
とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。</div>
<div style="text-align: left;">
今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。</div>
<div style="text-align: left;">
第一部「美学的判断力の批判」</div>
<div style="text-align: left;">
第一篇「美学的判断力の分析論」</div>
<div style="text-align: left;">
第一章「美の分析論」</div>
<div style="text-align: left;">
「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。</div>
<div style="text-align: left;">
今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。</div>
<div style="text-align: left;">
お気づきでしょうか、ここに至るまで我々は「おそらく」「なのでしょう」「だと思います」などの語彙を駆使して、あくまで想像で話を進めているのです。なんて恐ろしい。</div>
<div style="text-align: left;">
これから読み進めていって実態とかけ離れていることが明らかになるかもしれませんが、それも含めて今後が楽しみです(何を言ってるんだ)。</div>
<div style="text-align: left;">
<h4>
「美」以外のものは何も要らない</h4>
</div>
<div style="text-align: left;">
中身に入ります。章題から明らかであるように、今回読む箇所ではカントさんと一緒に「美」を分析していきます。ある意味当然で、「美しいか美しくないかを判断する能力」について何事かを知ろうとするならばまずは「美しいとは何か(あるいは何でないのか)? 美しくないとは何か(あるいは何でないのか)?」ということを知らねばなりません。珍しく用意周到にも我々はいま「(あるいは何でないのか)」という言葉を付け足しました。そうです、カントの取る手法はかなり根本に立ち返るもので、この章ではとことん「美とは何でないのか」という問いの下で美が突き詰められて考えられていきます。</div>
<div>
前回読んだところでも薄々感じられたかと思いますが、カントは非常に堅実で地道な手つきによって根本のところに立ち返ろうとします。「美とは何か」というある意味で非常にプリミティヴな問いを検討するにあたって、カントは我々が「美だと思っているところのもの」、その漠然とした総体から純粋な「美」そのものを取り出そうとするのです。それはキリスト教神学で言うところの「否定神学」的な手つきと同じで、つまり神というのは言葉でたどり着けないものだから、神でないものを全て取り除いて窮極のところまで神にできるだけ近づいていこうという手つき、それと全く同じことです。「処女厨」的な手つき、といえば通りが良いでしょうか。<br />
<h4>
4つの条件</h4>
この章の中では「美であること」「美であると判断すること」について、4つの様式に分けて分析がなされています。より正確に言うならば、「何が美でないか」「何が美でないと判断できるのか」を決める4つの条件(要素)です。4つの着目点は以下の通りです(だいたい)。<br />
<br />
1)<b>性質</b>:美的判断には何が関係「ない」のか?<br />
2)<b>分量</b>:美は誰にとって快いのか?<br />
3)<b>目的</b>:美しいものは何か目的に適っているから美しいのだろうか?<br />
4)<b>適意の様態</b>:美しさはどのように感じられるか?<br />
<br />
この章は最初に命題が建てられ、各節の最後に「この様式から論定される美の説明」という親切なまとめがつけられているので、迷子になることはありません。安心して読み進められるところです。</div>
<div style="text-align: left;">
<h4>
おれには関係のない話だ(?)</h4>
まず1)<b>性質</b>についての節では、一言で言って「美は<b>関心</b>とは関係ない」ということが言われます。「関心」というと?という感じですが、英語にするとinterest(ドイツ語だとdas Interesse)で関心・興味、興味をそそるもの、重要性、利害(関係)、利益、需要、利子などという訳が出てきます。どうやら単純に「おもしろ〜い」という意味だけではなく、自分にとって何らかの利益をもたらす→ゆえに興味/関心を持てる・利害関係があるという意味層が含まれています。カントはこんな風に言います。<br />
<blockquote class="tr_bq">
いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交じるならば、その美学的判断は甚しく不公平になり、決して純粋な趣味判断とは言えない<span style="font-size: x-small;">(上、73頁)</span></blockquote>
(実はこの後に「誰だってこれは賛成だろう?」という一言が付け加えられているので、いやいやほんとかよ笑って感じですが)ここで大事なのは、カントはとにかく「純粋な」趣味判断(何が美しくて何が美しくないのかを判断すること)を求めているということです。 「気持ちよさ(快)」とか「正しさ(善)」には「関心」がある、とカントは言います。カント自身が頑張ってひねり出した感のある例に、「もし無人島に住んだら」という話(73頁)があります。「もし無人島で一生暮らさなきゃいけないとして、美しい建物を現出させるような魔力が自分に備わっていたとしても、雨を避けられるような仮住まいの小屋があるならば美しい建築など別に不必要だ」という話です。美しいということは、自分に役に立つとか利益になるとかそういったレベルの話ではないとカントは言っています。<br />
美しさの感覚、趣味判断について特別な点が2つ挙げられています(81頁〜)。まずは、感覚の方法。快適だとか正しいとかいった感覚は、自分が認識し自分の内側で把握した上で理性が下す判断の結果です。それに反して美しさという感覚は、自分が内側で把握する前、ぱっと見で判断されるような感覚なのだと言われます。そして、自由かどうか。「心地よさ」には抗えませんし、「正しさ」という感覚も、カントによれば「命令」として感得されるので抗えないものですが、ただ「美しさ」だけは、何の命令にも従うことのない自由な感覚だと言います。<br />
最後に一つ、カントの面白い着眼点。それは「美しさ」の感覚だけは、人間のみが有する感覚だということです。カントによれば人間は「理性的存在」なおかつ「動物的存在」なのです。動物的存在の方はよくわかりますが、純粋な「理性的存在」とは何でしょうか。こう書いてあります。<br />
<blockquote class="tr_bq">
純然たる理性的存在者(例えば精霊) <span style="font-size: x-small;">(上、82頁)</span></blockquote>
なるほど。<br />
<h4>
みんなの美しさ</h4>
2)<b>分量</b>のところに移ります。ここの議論も一言にすれば、「美しいものは、みんなにとって普遍的に美しい(はずだ)」ということになります。<br />
「普遍的」という言葉が曲者なのですが、ここでカントはあくまで「普遍的」という言葉を使っており、「一般的」ではないのです。どういうことか。これはuniversalとgeneralとの違いなのだと言います。カントによれば、後者は経験的なものに対して使われますが、前者はそうでない。「美しいかどうかの判断」は、一人ひとりに委ねられたものなのではなく(「ぼくは美しいと思う」という判断が統計的に多く寄せられるから「美しい」のではなく)「普遍」に、全員が「美しいね!」と言うことが想定されるといった性質のものなのです。<br />
「想定される」と言いました。ある意味当然のことで、上に述べたように「美しいかどうかの判断」が普遍になされるものだとするならば、統計的な手法に依らない以上、「期待する」しかないのです。(カントは「主観的普遍妥当的」判断という言葉を使っています。「わたし的には」「普遍に当てはまる」と思われる判断ということです。)<br />
<blockquote class="tr_bq">
趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる<b>普遍的賛成</b>にほかならない、(略)他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない。 <span style="font-size: x-small;">(上、93頁)</span></blockquote>
美しさは、わたしからしてみれば、他のすべての人が残らず「美しいな〜!」と驚嘆することが<b>期待される</b>ような性質を持ったものなのです。<br />
この節で面白かったポイントはもう一つ。後半の第九項で「自由な遊び」というタームが出てきます。これが今後「美しいかどうかを判断する能力」の議論にとって重要だと思われます。この項において「美しさ」とは何かというと<br />
<blockquote class="tr_bq">
両つの心的能力(構想力と悟性)が互に調和し合っていきいきとはたらく軽快な遊びにおいて生じる結果の感覚 <span style="font-size: x-small;">(上、99頁)</span></blockquote>
というふうに定義されています。 で、私たちが美のどんなところを普遍的にみんなに当てはまるとおもっているかというと、それがまさにこの認識能力の自由な遊びだ、とカントは言うんですね。この自由な遊びによって「調和」、「均整的調和」、つまりバランスのとれたハーモニーを求める心はみんなに共通しておろうが、というのがカントの主張であり、だからあるものが「美しい」と言っていいのだということになっています。「遊び」という言葉とともに、カントの非常にストイックな文章に突如浮遊感が出てきます。そこが面白かった。<br />
<br />
長くなったので、条件3)と4)に関しては記事を改めます!</div>
工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-19809041043274820292015-12-02T21:44:00.002+09:002015-12-02T21:45:16.026+09:00文字25(現代語の現代語訳シリーズ)会いたさ、会いたさこそが、わたしを震わせるのでした<br />
あなたを遠く感じるのは、わたしがあなたを想うからでしょうか<br />
もう一度わたしとあなたであるわたしでいたいのですが<br />
わたしの気持ちはいつも不着のままなのです<br />
こころ、きもち、わたしの<br />
(小池昌代訳「会いたくて 会いたくて」)<br />
<br />
*<br />
<br />
恋をしてしまったのです<br />
あなたはたぶん気づいてはいないのでしょうけれど<br />
星の夜にわたしは願います<br />
櫻桃です ―<br />
わたしの指があなたに送る便りは<br />
(小池昌代訳「CHE.R.RY」)工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-37012884266189870292015-10-25T14:26:00.001+09:002015-10-25T14:29:05.430+09:00新潟県立近代美術館における会田誠展について帰省したついでに新潟県立近代美術館で2015年9月から11月まで開催されていた会田誠の個展「ま、Still Aliveってこーゆーこと」に行きましたが、肝っ玉の小さな展覧会でした。彼の展示があれだけ議論を呼んだ直後にやるということは、勇気のある決断なのかと思いきや、単に中止する勇気がなかっただけでは、と穿った見方をさせてしまうのも仕方のないことではないだろうか。<br />
<br />
なぜかといえば、各作品の隣に配置された「ヒント」と名付けられたプレート、あるいは館によって展示室前に掲げられた前言などが鑑賞者に一つの見方を強いるからだ。それはつまり会田の「コンセプトを鑑賞者が適切に理解せず」(本当にこういうニュアンスでした)ポリティカルな見方が横行していること、会田が「コンセプチュアルアーティスト」(に過ぎぬの)であり、「ポリティカル」な見方は「誤読」(本当にこう書いてあった)であるということ、こういう主張に他ならない。<br />
<br />
コンセプチュアルであることは即ちポリティカルでないことなのか?会田が創作の中心に据えているものは、あくまでもポリティカルなものが中心ではなかったか?<br />
<br />
新潟県立近代美術館は、徹底的に会田の政治性を無害化し「コンセプト」としてだけ鑑賞させようとしているふうに思われた。しかし美術館の内部で完結する「コンセプト」になんの意味があるのか? というよりそうした形骸化したコンセプトをこそ会田は批判対象としていたのではなかっただろうか?<br />
それは会田が意図しているであろう自作品の機能とオーバーラップされているが故に非常に巧妙かつ隠密であるが、まず第一に作者会田に失礼であり、そして鑑賞者に対しても失礼な計らいである。<br />
<br />
勇気がない、失礼である、事態はおそらくそれだけに留まらない。美術という無限の解釈を可能にするべき領域で一つの見方を強いることは暴力に他ならない。<br />
美術館がある一人の作家と協働することを選択した場合には、作家に寄り添って可能な限り創作を扶けるべきだし、館として開催を決めた限りは展覧会に対する批判に対しては作家と共に共闘するべきではないかとわたしは思う。だから本来なら近代美術館には、こういったエクスキューズなしで勝負してもらいたかった。作家とともに鑑賞者を挑発することを妨げるべきではなかった。ただ同時に、新潟(ごとき)の県立美術館(ごとき)にこんなことを求めるのは無理のある話だとわかっている。新潟県立近代美術館は闘いを放棄して、なあなあにうまくやっていくことを選択した。<br />
<br />
こうしたことを踏まえてしかしなお、いま新潟県立近代美術館に足を運ぶのも損ではないと思うのだ。私が述べたこうしたことに疑問を持てるか持てないかというところに、おそらくメタな意味としての鑑賞者としてのあなたが問われていると思うからだ。<br />
新潟の、県立の施設で、現代美術作家の個展を開く、というのは、良くも悪くもこの程度なのだ。親切な「ヒント」、絶え間ない無毒化、言い訳、「誤読」(誰の?)。そしてそれこそ10代の会田が憎悪した"新潟"そのものではなかったか。<br />
<br />
よろしい、会田誠の個展を、このタイミングで県立の施設で開催すること。それは一つの果断だし、何はともあれ私たちは新潟に縁のある一人の重要な現代美術作家の代表作を総ざらいできるのだ。<br />
しかしやはりわたしは主張したい。後々の現代美術を考えた時に、このような形式での展示は許してはならない。きっと作品の力と、社会へのレスポンスとしての美術の意味を殺してしまうだろうからだ。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-5711354105119666082015-09-06T15:11:00.002+09:002015-09-09T16:03:12.683+09:00『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(1)私事ですが、うまくいけば9月に大学を卒業し、来年4月の就業までニートとして研鑽を積むことになっています。<br />
そこで卒業前に何か一冊、自分だけでは読めない本を読もうじゃないか、と最愛の友人N(イタリア語専攻)に話を持ちかけ、何を読むかとなったときに、我々の頭に浮かんできたのが当然(でもないか)イマヌエル・カントとその著作だったというわけです。彼についてほとんど何も知らない我々にも当然彼の著作の名前は刷り込まれていました。ご存知の通りそれが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の3著作です。我々は哲学プロパーではありません。二人とも文学専攻(私はロシア現代詩、Nはイタリア現代文学)です。そうしたことを考慮すると、やはり我々が話題として身近に感じる、ひいては理解しやすいのは何より『判断力批判』であろうという結論に至りました。それは9月2日の夜、紀伊国屋書店新宿本店での出来事でした(ちなみに書店に行く前に飽きるまで焼肉を食い、新宿に行き、そこから渋谷まで歩いて渋谷wwwでのトーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映会に参加しました、そしてそれは最高だったのです・・・というのは全く関係のない話ですが)。<br />
<br />
ということで、我々は範囲を決めて、大体一週間間隔で読み合わせを行う(そして焼肉を食う)という、いわゆる読書会を始めることにしました。以上に述べた事情から、課題図書はイマヌエル・カント『判断力批判』(上下巻、篠田英雄訳、岩波文庫、1964;2013)ということに決めました。<br />
<br />
ただし、ただの読書会というのはつまらない、二人揃って唯一絶対たるカノンとしての1を生み出す作業など(時にはそれも有用でしょうが)、やはりありきたりであり、つまらない。何より悪い生徒である我々自身が飽きてしまう。ということで、Nには無断でこのブログ上で進捗状況をアップしていくことにしようかと思います。この場では工藤が記事を書くにもかかわらず、人称に「我々」を使おうかと思っています。哲学科の生徒にはできない不真面目さと独断で『判断力批判』を読む、そして頭の中を報告に付すことで、議論を不特定多数の海とも山ともつかぬ場所へ放り出してみる、それが我々の目指すところです。<br />
<br />
第一回目の今回は上巻の67頁まで、序言と序論を読みます。<br />
<br />
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* * *<br />
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9/3-6(読み合わせ会は9/8)</div>
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『判断力批判』序言と序論(〜67頁)</div>
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カントさんの親切さ</h3>
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我々が読書を始めて最初に感じたのが、まずカントの予想外の親切さでした。カントについてはほとんど何も知らずに我々は読書を始めました(Nは三批判書を全て購入していましたが読んではおらず、私に至っては一度は買った『純粋』を、何を思ったかブックオフに売り飛ばしさえしたのです)。何も知らない状態の私たちの、カントに対するイメージといえば、「難解」「悪文」「読みにくい」「わかりにくい」「わかってもらおうと思ってない」「不親切」「自己満足」「うざい」「くそ真面目」「面倒」などの半分私怨の混じった罵詈雑言の羅列、これでした。もちろんこのうち岩波書店の造本に帰す悪口もカント自身に帰すものも、我々自身に帰すものももちろんあるのですが、それについては考慮せず、カントを罵倒していた我々であるわけです。あったわけです。<br />
あった、というのはそのイメージが、実際に読んでみると変わりつつあるのをどうにも否定できず感じたからです。さすがに大学教授のカント、というわけで、上巻のだいたい20%を、本篇以前の「序言」と「序論」に費やしてくれているのです。そこで我々を驚かせたのは、カントが議論を「哲学の分類について(序論の第1節)」というような根本のところから始めてくれているということです。これは我々を喜ばせました。なぜなら『判断力』は『純粋』と『実践』に次ぐ著作であって、この二作を踏まえなければ理解できないことがあるらしい、というのは風の噂で理解しているところだったからです。<br />
たしかに最初は、<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>我々は(…)純粋理性一般の可能と限界とに関する研究を純粋理性批判と名ずけてよい。</i><span style="font-size: x-small;">(序言、13頁)</span></blockquote>
という一文からスタートするわけで、「はぁ? 純粋理性? よい? 誰が許可した?」みたいなキレ方をせざるを得なかったわけですが、そういう愚かで前著を踏まえない短絡的な読者のことを思って、カントは序論を「哲学の分類について」というところから始め、議論をほぼゼロベースから立ち上げようとしているのです(たぶん)。議論の立て方は非常に理にかなっていて、一歩一歩地をならしながら山を登っていく、そういった感があります。もちろんカントが目の前からふっと姿を消して100m先の岩の上に現れたりすることもあるのですが、その都度カントは「あ、ごめんごめん」とか言って戻ってきてくれる(実際の事を言うなら、我々自身が読み返したり精読したりする)ので、だいたいのことはしっかりわかるようにできている。考えてるな〜っ! カント〜っ! という感じです。なので今のところの感じでは、全く、さっぱり、なんの手がかりも掴めない、ということはなく、ほっとしています。これならいける気がする。<br />
序言では、悟性・理性・判断力という今後の議論の中心となる人間に備わる3つの力が紹介されたあと、今後の議論に関わる問題(疑問)(15頁)とか、「謎」(18頁)が掲出されます。ちなみに悟性とは、わたしがあるもの(A)をパッとみた瞬間に「これはAだ」とひらめくように直感する能力、理性とはAを欲しがっていいのか悪いのか判断する能力、判断力はその間にあってAが我々にとって心地よいか心地よくないか判断する能力、ということになるでしょうか(どうなんでしょうかそこのところ)。こうした無理矢理な要約に対して、カント主義者はぜひ激怒していただきたい。<br />
ここで疑問としてあげられているのは例えば次のようなことであるわけです。そうした判断力って、他に拠らない独自の原理がもともと備わっているんだろうか? とか心地いいとか悪いとか、そういう感情に生まれながらにして備わっているような規則ってあるんだろうか? とか(15頁)。<br />
そうした疑問に自問自答するかのように、以降序論ではカントが地道に論を立てながら、答えようとします。<br />
<h3>
</h3>
<h3>
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<h3>
チャート式カント</h3>
<br />
序論を読み始めると、我々が実際にカントを読み始める前、カントについて持っていた偏見の一部は間違っていなかったことがわかってきました。それはつまり「くそ真面目」であるという一点です。たしかにカントは「くそ真面目」以外の何ものでもないようです。とにかく、例外が出ないように丁寧に吟味しながら「二通りしかない」(21頁)とか「ほかならない」とか「何びとにも例外なく妥当することを要求する」(56頁)とかかなり強いことばでもって断定していきます。これに対して「ほんとにそうなんですかね」と我々は当然疑問を持たざるを得ないわけなのですが、そのへんはカントの存命中からすでに指摘があったみたいで、66頁に「いつも三分法に帰着するのを怪む人がある。」という注意書きがあります。<br />
なんにせよカントの魅力の一部は、このように世界(自然)をすぱすぱ切り分けていくところにあるのでしょうし、それは西洋近代の始まりとして流れに身を任せてゆくべきところなのでしょう。疑問は疑問として、読み進めていくことにしたいと思います。<br />
それにつけても序論というのは分析、分析、また分析からなるわけで、カントのこういった箇所は絶対にフローチャートにしたほうが受けがいいと思います。なにしろ首尾一貫して基本の基本にあるのは先ほど申し上げた悟性・理性・判断力の三分法なわけで、その原理・相互の関係・目指すものなどが付け加わっていく形式です。悟性は理論哲学で自然概念でアプリオリな原理で自然の合目的性で、理性は実践哲学で自由概念で形而上学的原理で実践的合目的性で、判断力はその間にあって悟性から理性への移り変わりの働きをする能力で規定的と反省的があって・・・といった感じでもう、表にすれば恐ろしいほど分かりやすいような分枝をしているのです。カントが67頁におまけしたあの表が、序論のほぼ全てです。だから当初の「わかりにく」そうだ、という印象はおそらく間違っていて、たぶんカントは物事をすごくシンプルにしたかったのです。ですが叙述スタイルは例のごとくのため、読むに難しい。執拗に綿密に、カントは論を積み上げます。「というのも」「だから」などということばでもってあらゆる考え方の裏付けを怠りません。だから煩雑になってしまうのはある程度仕方のないことなのです。<br />
カントは典型的な書きたいことと書ける文体に差がある作家なのではなかったかな、と思っています。個々人にそうした比重の違いはあるので、しかたない、というか、カントはこのようにしか書けなかったのだし、カントだからこそこのような文体になったのだ、それに良いも悪いもなく、世に出た以上読者の問題になります。<br />
だが一つ言わせてもらうと、カントはエクセルを使え! 以上です。<br />
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限界の設定</h3>
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<br /></div>
そうしたなかにあって一番スリリングで興味深く読んだ箇所は、序論の2節とか4節のところです。哲学的な言説が立ち入れる領域、あるいは我々の認識の限界を(地域とかアドレスとか土地といったどこか政治を思わせるタームでもって)規定していきます。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>それだから我々の全認識能力にとっては、無辺際にしてしかもまた近傍し難いような土地が存在するということになる、即ちそれは超感性的なものという土地である。</i><span style="font-size: x-small;">(序論第2節、29頁)</span></blockquote>
このようにカントが言うとき、この「超感性的なもの」というのはつまりカント発明になる「物自体」という考え方のことなのです。物自体とは、平たく言えば私たちが見ているもの「A'」がある、ただしこの「A'」は我々が認識する限りでの「A'」であって(認識しなければ何も始まらないから当然ですね)、我々の認識が及ばない時点でこの「A'」の基であるような「A」が存在するはずだ(と仮定してみよう)、とするときの「A」です。それはもちろん定義上認識し得ないはずなのです(というのは、認識した時点でそれは「A'」であって"物自体"としての「A」自体ではないはずですから)。こんなふうに我々には認識できないものがあるというふうに言われます。それにもかかわらずその認識できないものが、我々の認識の及ぶ世界に影響を必ず及ぼしているということ。もちろん何かを規定することは規定できないことを除外することでもあって、必要な作業ではあるのですが、認識の中に無意識的に、自然に、認識できないものが入り込んでいるという。<br />
この著作では「調和」ということが目指されており、45頁に言われるように<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>無限に多様な経験的法則を含む自然によって与えられた知覚を、完全な連関を保つ一個の経験に仕立てる</i><span style="font-size: x-small;">(序論第5節、45頁)</span></blockquote>
こういうある種無謀な企てが、最終的に「判断力」がもたらす(べき)地点です。なにしろ無限を一個にするというのですから、無謀と言わず何と言いましょう。カントの誠実なところは、自然とは「無限に多様」であることを認めているというところです。自然は単純だし、たやすく制御できるのだ、とは口が裂けても言わないでしょう。ここは信頼に足りると思います。ですからこの序論の中では判断力に関して「特殊」だとか「反省的」というふうに言われます。つまり、あまりに多様な自然については、特殊、つまり一つ一つの事例に即して考察せねばならないし、その能力は反省的、つまり認知された個々の事例について一つ一つ後づけで判断を下すようなものである。カントはこのように言っている、と我々は判断しました。<br />
しかし目指すところは当然「一個の経験」として自然を把握するところにあるのですから、無謀さに変わりはありません。すでに序論から認識から逃れようとする無限たる自然と、無限を一として全てを掌握したい人間が火花を散らしているのです。<br />
カントは哲学者というよりはむしろ"批判"者です。序論2〜3節でカント自身がいうように、彼の著作は哲学することではなく、批判することをこそ旨とするのだ。批判とはなにか。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>批判の旨とするところは、これらの能力(引用者註:悟性・理性・判断力の三つの認識能力)をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである。</i><span style="font-size: x-small;">(序論第3節、30頁)</span></blockquote>
カントの「批判」がスリリングなのは、こうして人間の基本的な能力を仮定して、それによって我々がどこまで自然を知ることができるのか? 知覚は、認識は、いったいどこまで可能なのか? 人間の能力はどこまで及ぶのか? といった問いに代表されるように、超感性的なものと感性的なものの境目を探り当てていく行為だからです。それは人間のマクシマムを規定する作業であると同時に、人間の限界をも言い得てしまう性質の、危険な、カントの一人間としてあり様をかけた問いなのです。<br />
哲学はその範疇で考えられるものについて考えるしかない。カントの試みは、哲学を開始するにあたって哲学が可能である領域を定義する、いわば哲学の家を建てる、そういった試みであったはずです。<br />
<br />
次回以降いよいよ本篇に入ります。<br />
<br />
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(最終更新日:2015年9月9日)工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-17669904907206006002015-08-03T23:51:00.000+09:002015-08-04T23:51:40.207+09:00青山真治演出『ワーニャおじさん』2014年12月21日に、笹塚ファクトリーで上演された青山真治演出による『ワーニャおじさん』についての感想文です。<br />
感想をまとめる時宜を失したままでしたので(工藤の怠惰のせいです)、上演後友人に送ったメッセージを編集しながら転載します。いまさらですが。<br />
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2014年12月22日<br />
00:24 青山真治の『ワーニャ』、最高!ではないけど、みて良かった感じ。どうしてもマールイ劇場(ペテルブルグ)のと比べてしまうから酷な話ではあるけど<br />
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00:24 いま『ワーニャ』をやるとしたらソーニャが強くなきゃいけない、という認識は青山も持っていて、でもその強さの表れ方がすごく日本っぽくて<br />
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00:24 ロシア人ver.だとソーニャに弱いんだけど強がってる感じが出てて、それはそれで泣けるんだけど、青山の演出だとソーニャがまるでロボットみたいな喋り方をするんです。日常にすっごい耐えて耐えているうちに感情を殺すことを覚えてしまった感じの。<br />
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00:24 それで最後にその殺していた感情のストッパーが外れてワーニャの頭を足で蹴るシーンがあった、そこに彼女の全部の感情を持っていってて、すごくよかった。<br />
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00:25 ワーニャの役者もすごくうまかったよ。ソーニャと同じく日常で抱え込んでしまった不甲斐ない思いをすべて語尾に「〜(笑)」をつけてなんとか慣れようとする感じの喋り方で、これが、うまかった。<br />
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00:25 日本でいま上演するに際してよく練られた感情の出し方だったと思う。日常に耐えて耐えてついにはその歪みに耐えられなくなって精神病的なやり方ですべてを吐き出してしまう。<br />
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00:25 それで、SFっていうのは心配してたより前面に出てはなかったんだけど、でも「教授先生と新妻」は、異世界の惑星に降り立った地球人のようなものなのかな、とは思った。確かに衣装的にも、全員がツナギを着ている中でその二人だけは(ツナギを着てるけども)コートを羽織ったりレースをつけたりしている<br />
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00:27 「他者」の視点の提供者です<br />
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00:30 あとジンワリきたのが、最後の「そして、ゆっくり休むの。」みたいな台詞が、「息をつくの。」という訳になってて、生硬だなあとおもったけど、何度も聞いてるとそんなことはなくて<br />
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00:31 「息をつく」= 1,休憩する 2,息を尽く(死) 3,呼吸をする<br />
の三段階の意味層があって、それっていうのはロシア語でも<br />
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00:35 отдыхатьというときに、1,休憩する 2,от+духで呼吸(生)からの離脱<br />
という少なくとも二層の意味があるようにみえるのと対応してるんかな、と思った。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8175817655963860753.post-16401042942427808332015-07-31T15:22:00.001+09:002015-08-01T21:04:20.854+09:00いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: <a href="http://raftweb.info/chekhov">http://raftweb.info/chekhov</a>)。<br />
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。<br />
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7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』<br />
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くところです。相手がいなくても、なんと自然に聞こえることでしょうか。チェーホフのセリフ作りの巧妙さと恐ろしさをいま一度確認できた気がしました。<br />
カンパニー自体昨年結成されたばかりのようで、今後が楽しみです。<br />
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7/27 shelfによる『三人姉妹』をモチーフにした公演『三人(姉妹)』<br />
まず冒頭で「カチューシャ」が流れるところから、期待外れな感じを抱いてしまいました。チェーホフの戯曲ほど軍歌(というか戦時歌謡)の合わない演劇はありません。そういった熱から一番遠いところで成立しているのがチェーホフだとわたしは思っているので。<br />
この演出の肝は、おそらくそういった的外れかつ時宜を得ない歌曲の使用と、俳優たちによるグロテスクに引きつった過剰なセリフ回しの2点でしょう。そして自信を持って、二つとも成功していないと言えます。<br />
俳優たちはわざとセリフを調子外れかつグロテスクな喋り方で表に出していくわけです。それはおそらくシリアスさの方面(例えばそれによって劇自体を解体してしまうような「うまくいかなさ」の表象を目すなど)を志向しているのではなく、ファニー・ユーモアの方向を目していることは明らかです。セリフを過剰なエモーションと表情によって出すことで、チェーホフのセリフを絶対化しないで笑ってみせる、そうした試みは理解できます。しかし欠点は、それがまったく面白くないという点です。おそらく俳優たちはベストを尽くしているでしょう。直前に一人降板した事情を鑑みても、俳優たちの演技に特に不足はないように思えました。どうしてなのか、わたしにはうまく言えませんが、チェーホフを笑う試みが、この演出ではまったく成功していない。そのせいで劇中に生まれるはずだった面白さが、まったく面白くないという意味で別次元のグロテスクに陥ってしまっており、結論としては退屈でした。そもそもこれがチェーホフの演劇、しかも「三人姉妹」である必要はあったのでしょうか。<br />
チェーホフを笑うことは非常に困難です。笑ってみるならば底なしにやってみるがいいでしょう。今回の場合はどこか不徹底な印象を受けました。チェーホフは強い劇作家です。真剣にやるにせよやらぬにせよ凡百の演出はチェーホフと戦っても惨敗するのがオチでしょうが、百に1つくらいはその勝負において勝ちとは言わないまでも引き分け程度の成果を収めることができる演出があるという可能性に、わたしはこれからも賭けていきたいのです。今回の演出はそうした百に1つの演出ではなかった、と、それだけの話ではあるのですが。おそらくわたしはたった1時間の演劇に求めすぎなのでしょう。工藤 順(Nao KUDO)http://www.blogger.com/profile/08696891931815515565noreply@blogger.com0